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このnoteについて:一番お伝えしたいこと
はじめまして、御木徳大と申します。
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熊本県南阿蘇村の大自然に魅せられて、
2026年3月からMIKI FARMとして新たに農業を始めます。
無農薬・無化学肥料の露地栽培野菜と平飼い養鶏
季節のお野菜と卵をセットで販売いたします。
農藝屋 徳の名義でイラストレーターとしても活動しています。
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〇 noteメンバーシップを開設しています〇
現在のところ、MIKI FARM開園に向けたドネーションという意味合いが強いメンバーシップです。
実際に農業を始めていく中で、徐々にサービスを充実させていただきます!
詳しくは↑のリンクから!応援よろしくお願いいたします!
〇このnoteについて〇
このnoteでは『農・アート・信仰』の3つのテーマを横断しながらエッセイを綴っています。
それぞれがかなりニッチなテーマばかりです。
一つのアカウントにまとめてしまうのは普通に考えるとあまり得策ではないですね。
「農業には興味あるけど宗教の話はちょっと…」
という方もおられるかと思います。
テーマごとにまとめたマガジンへのリンクを貼っておきますので、興味のあるテーマに関するものだけでもご一読いただけたら嬉しいです。
マガジンだけをフォローしていただくこともできます。
農業は農業。アートはアート。信仰は信仰。
区別してしまった方がもっとずっとシンプルだったとは思うのですが。
私としては、どうしてもこの3つのテーマを同じストーリーの中で語りたかったのです。なので、一つの場に詰め合わせるようにしてnoteを始めてみました。
どうして『農・アート・信仰』の3つにこだわるのか、その理由の部分こそ、私がこのnoteを通じてお伝えしたいことです。
一番伝えたいことを、このプロフィールページにまとめて書き記しておきたいと思います。
プロフィールにしては随分と込み入ったお話になってしまいました。かなりの長文です。
ここから先はプロフィールと言うよりも、一つの読みものとして「こんな人もいるんだなぁ」と思って、面白がっていただけたら幸いです。
(いわゆる農家さんが発信している”農的暮らし”の素晴らしさのようなものを期待されてページを読み進めて下さった方、申し訳ありません。
序盤は専ら私と信仰の関わりについてのお話になります。次第に農業にテーマを移していきますが、それは後半以降になります。)
(2025年3月現在、執筆中。後日加筆修正します。)
農家で画家で宗教家
私は現在は駆け出しの農家で、若かりしころは画家を目指し、元々は宗教家、という何とも変わった経歴を持っています。
──農家で画家で宗教家。
「一体何家なの?」と、てんで定まっていない感じがしてしまいますが、私の中では一貫して変わらない”メインテーマ”のようなものがあります。
思い返せば10代の少年だった頃から今でも、ずっと変わっていません。私のルーツそのものです。
私は祖父の代から、大阪に本部があるパーフェクトリバティー教団(PL)の布教師を務める家庭に生まれ、信仰の中で育ちました。今で言う宗教3世です。
”宗教2世問題”のようなことは、少なくとも私には少しも当てはまらなくて、信仰が当たり前の環境の中で何の違和感も不満も無く、普通に(?)健全に育ちました。
特殊な環境ではあったかも知れませんが、至って平凡な日々だったと思います。
宗教的なコミュニティ、というと何か世の中から切り離された特異な場所のように感じられてしまうかも知れませんが、私にとってのPLはただの”故郷”で、かけがえのない少年時代を過ごした場所です。
家族を始め、そこに暮らす人々のことを、今も大切に思っています。
宗教って何だ?
私がまだ小学生だった頃、衝撃的な出来事が起こりました。
1995年3月、地下鉄サリン事件。
日本中を震撼させた大事件、引き起こしたのは新興宗教団体、オウム真理教でした。
事件そのもののことは、詳しいことは知りません。
知りようも無いというか、一体なぜあんな事件が起こったのか今でも不可解なのは、皆さんと全く同じでしょう。
あの事件が起こる前と後で、私の”宗教”への意識が明らかに変わってしまいました。
社会的に見ても事件以降、”新興宗教”への忌避感がにわかに激しくなりました。一つの国民感情、と言っていい程に。
宗教=得体の知れないもの。カルト。
恐れや怒り、もしかすると軽蔑。色々なマイナスのニュアンスを含んで”新興宗教”が語られていることに、かつて少年だった私は動揺しました。
「”宗教”って、何か怖い。でも、自分が暮らしているPLも、”新興宗教”じゃないか。世の人々は、PLも同じようなものだと思っているんだろうか?
──”宗教”って、一体何なんだ?」
同じくくりで”宗教”が語られることに違和感を覚え、憤りすら感じました。しかし私自身、”宗教”について明確に語る言葉を持ち合わせていませんでした。
「私は違う!」と言っても、「何が?」と問われると、はっきりとは答えられないのです。
それはもちろん、私はテロだとか拉致だとか、反社会的な行為には絶対に加担しません。それが何か宗教上の至上命題として教団から指示されたものだとしても、です。
決して何か狂信的に教団のことを信じている訳では無い。PLの皆さんは、全員そうじゃないかと思います。
ただそういうこと以前に、いくら私が自分の信仰の正当性を訴えたとしても、「そりゃ信じている人には大切なんだろうね。」「信じている人には本当なんだろうね。」と距離を置かれてしまえばそれまでです。
どうしようもない隔たりが、私たちと社会の間に存在している。
さらに言えば、「私が信じているものは本当で、あの人たちは間違ったことを信じていたんだ。」そんな風に他所の信仰を否定してしまえば、私たちの信じているものもまた、同じように否定されることを拒めなくなってしまいます。
この事件を、他人事にしてはいけないと思いました。
何とかしたい。
”宗教”の内と外を隔てる”壁”、これを何とかして打ち壊せないものだろうか?
地下鉄サリン事件のような悲劇も、根本的な原因を突き詰めていけばこの”壁”に行き着くのだと、私は考えています。
団体の内と外が、お互いにお互いの言うことに聞く耳を持っていない閉鎖的な状態。
非常に風通りの悪い、閉ざされたコミュニティの中で極端な思想が産まれる。これは何も、宗教に限った話では無いと思うのです。
信条の異なるもの同士でも理解を持ってお互いに耳を貸すことができていれば、悲劇は起こらないはず。ことさらに宗教が忌避される必要もないでしょう。
お互いの信仰に理解を示せる社会であって欲しい。何かを信じている人も、そうでない人も。
それを望むのであれば、私たち信仰者はきちんと社会に理解される形で自分たちの信仰について語る努力をしなければなりません。
布教活動と称して教義を押し付けるのではなく、独善的な教義を離れて、社会一般に受け入れられる形で筆舌を尽くす必要があります。
そのための一つの文脈として、選んだのがアート、絵を描くことでした。
──ちょっと話が飛躍してしまうのですが、当時の私としては筋道を立てて考えた結果たどり着いた合理的な選択でした。
10代の少年が抱えきるにはちょっと難しい悩みでしたが、この時の私の結論は大筋で変わることなく今も私の目標となっている、”メインテーマ”です。
上手に伝えられるか、分かりませんが、私の信仰とアートの関わりについて、書いていきます。
芸術って何?
パーフェクト リバティー教団(PL)は、特に教義を重んじる宗教で、その”教え”にそって生きることで幸福を得られる、というようなことを説いている団体です。
何を信じているかを端的に言うとすれば、”より良い生き方がある”ということそのものを信じている、そんな感じの信仰です。
なので、冠婚葬祭や加持祈祷のようなことに加えて、日々の暮らしをより良く生きる、道徳や倫理、処世術としての側面が強いかも知れません。
そんなPLの第一義として説かれている教えに「人生は芸術である」という言葉があります。
「人生を自分の作品だと思って、胸を張ってサインが出来るような生き方をしよう。」といったニュアンスが込められています。
この言葉に毎日のように触れてきました。
何せPLではこれを「処世訓第一条」としていたる所に掲げていましたし、PLの布教師だった祖父も口癖のように「人生は芸術である。楽しかるべきである。」と話していましたから、もう耳にタコができるほど──というのは失言ですが(笑)、そのくらい私にとっては耳慣れた言葉です。
当時10代の思春期真っ盛りだった私は、多少ひねくれた形でこの言葉を受け取っていました。
「『人生は芸術』と言うならじゃあ”芸術”って何だ?」
教団の中で説かれるお話としては、人として美しいあり方が芸術なんだという風に良く言われていました。調和したあり方、均整のとれた立ち居振る舞いが芸術なんだと…。
それで、「あの人は芸術になっている」だとか、やれ「お前のやることは芸術になっとらん!」だとか、そんな使われ方をしていることもありました。
それを聞いて、10代の少年は思う訳です。
「人として美しいとか、調和とか、品行方正だとか…そんなもの少しも面白くない。」
「”芸術”がそういう窮屈な、堅苦しい観念の中に収まるものとは思わない。」
生意気ですね。
でも芸術について、納得のいく答えを聞けたことがあまり無かったのは事実です。
「『人生は芸術である』なんて言ってるのに、私たちはあんまり芸術について説明できていない。」
「何かぼんやりと”美しい”ものが芸術だ、なんて、そんなことじゃ世間の人は納得しないぞ。何が美しいかなんて、人それぞれじゃないか。」
「──逆に言えば、芸術とは何か?という部分を、ちゃんと人が納得できる形で伝えられれば、そこを足がかりにPLのことを世間の人にも理解してもらえるんじゃないか?」
芸術を理解できれば、私の信仰と社会の接点を見出すことができる。
世に芸術家と言われるようになれば、「人生は芸術である」という言葉を重視しているPLの信仰者の中でも一目置かれる存在になることができます。
また、芸術の世界で身を立てることができた上で、その創作活動の根本に信仰があるのだとすれば、芸術の文脈から信仰のことを紹介することもできるのではないかと。そんなことを考えるようになったのです。
芸術家に憧れる若者は数多くいるのでしょうが、私がそこに惹かれるようになった理由は少々込み入っていました。
(2025年3月時点はここまで 後日加筆いたします)