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高齢化する信仰の現場:サステナブルマインド

MIKI FARM MAGAZINE vol.9
noteメンバーシップを開設していますが、ほぼ全文を公開しています。
信仰3世で元宗教家。現在は新規就農に向けて準備中。ちょっと変わった視点から、農業に触れて学んだこと感じたことを綴っています。
今回は”高齢化”について。

前回のマガジンは農業が直面する高齢化問題についてでした。

今回はテーマを信仰に移して、高齢化について綴ります。


宗教離れによる高齢化が止まらない

私は元々、農業とは無関係な環境にいましたので、そもそもこの業界にあまり馴染みがありませんでした。
それでも、日本の農業が直面する高齢化問題のことを他人事に思えないのは、状況がそっくりそのまま日本社会における宗教離れの実情と重なるからです。

農業従事者の平均年齢は2025年で70歳にも達しますが、ほぼ同じことが信仰の現場でも起こっています。もちろん団体によって状況は異なるでしょうが、日本人の宗教離れは近年より顕著なものとなり、総じて高齢化が進んでいます。

私はPL教の布教師を務める家庭に生まれ、信仰の中で育ちました。私にとっての信仰は日常そのものであって、何も特別なものではありませんでした。
両親や祖父母が大切にしてきた信仰のことを、私も同じように大切にしたいと思っています。

高齢化が進み続ける信仰の現場を肌で感じながら、これを何とかできないか、何かできることはないのかを切実に考え続けてきました。

農業もまた、深刻な高齢化問題を抱えています。
ただ、信仰におけるそれと大きく異なるのは、農業には社会を存続させるための必要性があって、問題意識の共有がなされ、公に支援を受けられるという点です。私自身が新規就農にあたって支援を受けられ多くの方に助けていただいているように、です。

農業は社会の基盤です。私たちの生活のために無くてはならないもの、無くなっては困るものです。そのことに誰も異論はないでしょう。

宗教は?…と顧みてみると、なかなか辛いものがあります。

宗教の社会的必要性

多くの人にとって宗教は社会的必要性のないものになってきているのではないでしょうか。少なくとも農業のように一次産業としての必要性はありませんから、そういった意味で、無くなっても差し支えないものという認識は広がってしまっているのかも知れません。
それどころか、社会不安を引き起こす原因として忌避されている雰囲気、これは確実にあります。

信仰を繋いでいくことが積極的に支持されることはなく、むしろ問題視されている現状が「宗教2世問題」という言葉に端的に表されています。

ただ、私個人としては信仰は大切なもの。必要なものです。
私だけではなくて、世代を越えて信仰を守り伝えていくことに特別な価値を見いだしている人は、本当は数多くいるはずです。それぞれの信条は異なっているとしても。

何とかこの感覚を、人が理解できる形で表現できないか模索してきました。特に信仰を持っていない人に、たとえ支持されることはなくとも、少なくとも理解はできる形で。

信仰=サステナブルマインド

そんな中で”サステナブルマインド”という言葉を耳にします。
過去のnoteの中でも触れさせて頂きましたが、欧米で広まるマインドフルネスを牽引してきたティック・ナット・ハン禅師が作った僧院プラムヴィレッジから発信されたものです。

(過去のコラムはこちら↓)

私たちの社会がサステナビリティ、持続性を獲得するために必要なのは、直面している個々の問題に対する解決方法を追い続けることだけではなくて、今ここにある幸福を見出す精神性を世代を越えて繋いでいくことだ、というものです。
恐怖や絶望に基づいた行動は持続可能なものにはなり得ず、いつかは燃え尽きてしまったり、更に複雑な問題を引き起こす暴挙に繋がってしまいます。
持続可能な社会を形成するために本当に必要なのは、今ここにあるものから幸福を見出すこと、幸せのために本当に必要なものを知る智恵、持続可能な精神性だというのです。

社会をサステナブルなものにするために本当に必要なものは何か。

今ここに幸せを見出す知恵。
世代を越えて繋いでいくべき精神性。
持続可能な人間性。

それが”サステナブルマインド”だと言うのですが、私にとってはPLの信仰が、まさにそういうものです。
と言うより、そうであって欲しいもの、とした方が正確かも知れません。

サステナブルマインドに紐づくものとして

私自身の信仰をこの言葉に寄せていく必要があると感じました。そうすれば世代を越えて信仰を繋いでいくことの価値を公然と発信できるからです。
しかし、特定の団体に属する宗教家のままで、他所から借りてきたようなことを口にしているだけではただのお粗末な方便にしかなりません。

自分自身が社会の存続のために何か具体的な貢献をした上でなければ、”サステナブル”などと言ってみても何ら説得力がありません。

信仰の裏打ちでもって、持続可能な営みを実際に形作る。自分の手で。日々、祈りながら。

そのことで、少なくとも私自身が私の信仰をサステナブルマインドに紐づくものとして位置づけることはできるはずです。

それができて初めて、信仰の存続について積極的な発言が出来るようになります。
それができたところで、実際に信仰を繋いでいけるかどうかは別の話ですが、できるところから始めるしかないし、少なくともそこまでのことはできる。

そう思い至って、私はそれまでの宗教家としての務めを辞して、個人として農業に携わる、農家になることを選択しました。

私にとっての農業は持続可能性という文脈を通じて私の信仰と深く関わっています。

至ってシンプルに、素朴に。

だからと言って何か神がかり的なことに頼って怪し気な栽培手法をとる〇〇農法といったものを世に広めようとか、そんな荒唐無稽なことではなくて、信仰を拠り所としているからこそ寧ろ科学的な視点を持って、誰からも理解されるやり方で農業と向き合いたい、そう思っています。

本当は信仰という営みだって、神がかりや迷信などではなくて、至ってシンプルに解釈できるものだと、私は思うのですが。

サステナブルマインドという考え方は私個人としてはしっくりきたというか、腑に落ちました。信仰とはサステナブルマインドを育むためにあるんだと、そういう位置づけがしっかりできれば、これを子々孫々に繋げていこうと、堂々と声を上げられるようになります。

そんな発信をしていく上での説得力を身につけるために、今日も畑仕事に勤しむ毎日です。

…などとまとめてしまうと、何かまるで現代を生きる修行僧みたいですが(笑)
やっぱり文章に書き起こすと正しくニュアンスが伝わらないですね。
決して嘘偽りはないのですが、テーマがテーマだけに、大げさなものになりがちです。
もっと素朴な表現があるといいのですが。

今日のところは、このくらいで終わりにします。
長文にお付き合い頂き、ありがとうございました!

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