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ハワイの恋が終わり苦しみの先に、悟りへの道が開けた 42

第五章42 中庸になっていない

私の心は、中庸になったつもりだった。

でも、全然なっていないことが分かった。これが繰り返される、アップダウン、Up Down。

先日、元同僚のマリアからクリスの近況を聞いた。彼は、近々大きなイベントをするらしい。
「私にクリスのことを何も言わないで」と以前お願いしたのに。
マリアは私に悪意があるのだろうか。いや、そこまで悪い人ではないだろうが、他人の不幸は蜜の味なのだ。

マリアは言った。

「彼はなんだかんだ言っても、運が強いね」

私は再びその言葉に反応した。血圧が上がり、体がほてった。

「彼が強運なのではなくて、教会にお金があるから、乗っかっているだけよ。教会の宗派の一番偉い人がゴルフをしたいから、日本の信者を連れてツアーで来るのよ。85周年記念だなんて、すごく中途半端な数字じゃない?」

「彼の運が強いとすれば、お金のある教会を選んだこと、年上の私を選んで付き合ったこと、私が彼を有名にしたことよ」

ああ、私はまだこんなに彼の幸運話になるとむかつく。良かったね、って彼の活躍を喜べない。

スピリチュアルTVで集まった悟りの仲間の場、サットサンで相談してみた。悟りを開きたい人たちが集う勉強会だ。

そこで言われた

「りささんはそう思ったら、私はむかつくのだな。って認めれば良いのよ。そう思ったことに、まだむかつく自分を責めたり、情けなく思ったりするのでは無くて、まだむかつく自分をよしよしって思うだけでいいの。あとは、何も考えなければ良いのよ」

と言われた。そうなのだ。思ったことは思ったことで、それを認めて終わりにすれば良い。

なぜまだ考えるのだろう、私は好きでは無かったではないか。結局、彼は寂しさのあまり、自分が偉くなったと勘違いすることによって、その寂しさを乗り越えようとしている。私には彼の変化がわかる。

彼の一生は、ずっと寂しいのだと思う。それは道院のフーチに出ていたのだ。

私の日本の知り合いが道院、世界紅卍会という宗教に入った。私も誘われたが、一度も岐阜の寺院に出向くことは無かった。その友人が、フーチで未来を占う話をしてくれた。早速、私も申し込みをお願いした。フーチとは、中国語でフートと呼ばれ、神の意志が下りてくる言葉のことだ。道院の本部は、台湾にある。台湾の山奥の高い崖の途中に、その寺院がある。二人の僧侶が、長い棒の端と端を持って、真ん中の筆が絵や字を書きだす。

私は台湾の現地に行く機会は結局なかったが、その友人はそこへ何度も行った。クリスのフーチは、茶色の絵でだった。羽の万年筆がインク入れに入っており、その横には道徳と書かれた本が、逆さまになって描かれている。それが、クリスの一生の象徴を表すらしい。

多少彼はハワイの中では、有名な牧師になったのかもしれない。これからもロータリーの会員として、フルーティストとしては日本国領事館のパーティーで登場するのだろう。でも、それまでなのだと思う。私はクリスがCDを一曲出すまでには引き上げたが、日本ではそこまでだ。口先で感謝しているとか、大事な人と私のことを言労う彼は、せこいプレゼントで私を傷つけた。

最後のバースデープレゼントが、25ドルのギフトサティフィケートと、スーパーの花束。くれた時には、確かに「少ないけど」と言っていた。少ない物を、最高に世話になった相手に渡すな、と言いたい。

後に、私はギフトサキフィケ―トを彼に返したので、渋々な感じで200ドルのチェックをくれた。そんな金額で私は喜べないし、今となっては少なすぎる。でも、もらっておいた。この人は何もわからない。

私も成長して、サットサンが終わるころには、心が中庸になれた。

クリスの頭には私を軽く思うとか、彼女が現れて私への価値が低くなったとか、そういうことは全く無かった。単に、花束だけでは少ないかなと思ったのだろう。(少なすぎるぞ、馬鹿野郎)といった心の声は認めて、新しい仲間が、新しい気付きを与えてくれたことに感謝した。

元の自分に戻れた瞬間だった。


スーパーのSafeway 花うりば

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