乱読乱文、あるいは積ん読要塞攻略記ー1

 恥ずかしながら積ん読が多い。
 多い。
 多すぎる。
 書店で、ネットで、古本屋で。
 興味を惹かれて買ったは良いが、買っただけで満足した一冊。
 それが積もり積もって山と成り。
 山が連なり谷と象り。
 谷は複雑怪奇に入り組んで、その様もはや迷宮の如し。
 どこから手を付けたら良いのか分からない。
 その堅牢さたるや要塞の如し。

 これはいかんと手近なところから読み始めたものの。
 欲深し、業深し。
 読みっぱなしは勿体ない。
 本の内容を血肉にせんと試みるなら、やはりアウトプットを前提として取り組むのが吉と考えた。
 読んで書く。
 書いて読む。
 そして考える。
 乱読。
 乱文。
 地道にではあれど、いつか積ん読要塞を切り崩す為に。

・書くにあたり幾つかのルール。
・最初から順番に。
 速読の本を手に取れば、必要な箇所だけを読めという。
 必要な情報を探すための斜め読み。
 技術として習得しておいて損はないだろうが、性格的に性に合わない。
 丁寧に読み進めるわけでもないが、最初から順番に進めていく事。
 ただし、雑誌の類いは例外とする。

・次から次へと本を読み散らかす。
 最初から順番に進めれば、いずれは飽きる事も多い。
 ならいっそ、飽きたら違う本を手に取ると。
 むしろ、飽きてなくても途中で違う本を手に取ると定める。
 バイキング形式の食卓で、マナーを知らず料理を食べ散らかすくらいのつもりで挑む事。

・1日50ページ前後を読む。
 一日一語を得れば… と説いたのは吉田松陰であったか。
 読み散らかすにしろ、一日50ページを目安に進めば365日で18,250ページ。
 文庫本の平均が350ページと仮定して一年で52冊前後を読み終える計算…正直それでも追いつかないんだが。

・ネタバレ禁止。
 この乱文を読んで興味を惹かれた人がいるとして。
 知る快感を減じる無作法はしないよう心がける事。



 本日の乱読ラインナップ
『乱読のセレンディピティ』 著:外山滋比古 扶桑社
『原稿用紙10枚を書く力』 著:齋藤 孝 大和書房
『すべてはノートからはじまる あなたの人生をひらく記録術』 著:倉下忠憲 星海社新書

・問い:セレンディピティとは何か?
 外山氏と言うと『思考の整理学』や『知的創造のヒント』といった著書で一時話題になり。
 今でも書店でよく著書を見かけるお人。
 そんな人の説く乱読とはどんなモノか?
 というかセレンディピティとは何か?
 興味を持ち読み始める。

 曰く、もらった本は面白くないという。
 社交辞令的に贈り贈られた本は当人の興味に一致するとは限らない。
 義理で興味の無い本を読むのは苦痛だ。
 本はやはり、自分で選んだモノを読むに限る。
 それも、身銭を切って買った方が良い。
 本は高い。
 高いモノを買う時、人は慎重になる。
 外れを引けば損した気になる。
 同じ失敗を繰り返さないよう、より慎重になる。
 つまりは本の目利きになるという事。

 加えて。
 書店に行けば、そこにある本の量に圧倒される。
 大規模な書店であれば当然。
 小規模な店であっても、一生かけても読み尽くせない量の本がある。
 その中から読みたい本を選ぶ。
 選んで買う。
 所有する。
 本に対して、知識に対して、我が儘に接する。
 ページを折る。書き込みをする。場合によっては切り取ったって構わない。
 乱読する。
 つまらないと思えば放り出す。
 本に義理立てしたところで誰が喜ぶ。

 我が儘に読め。
 乱読せよ。
 情報に溢れたこの時代、もっとも面白い読み方は乱読であると説く。

・齋藤氏と聞くと、まずは『読書力』を連想する。
 岩波新書で一昔前に話題になったと記憶している。
 その氏が説く『書く力』とは何か?

 書く力と読む力の間には切っても切れない関係性がある。
 同時に、書く力と読む力は考える力を下支えするものでもある。
 読んで考える、考えた事を書き出す。書くことで考えをまとめる。発展させる。あるいは修正する。
 伝えやすいように編集する。
 全て不可分である。
 書く力の一つの目安として、原稿用紙10枚を埋められるかどうか、だそうだ。
 何の準備もなく書き始めても、原稿用紙2~3枚程度ならなんとかなるかもしれない。
 しかし、10枚となると準備無しには難しい。
 書くための材料を揃え、整理し、展開を考える。

 氏は話すことを歩くこと。
 書くことを走ることに例える。
 特別な訓練が無くとも、人は長距離を歩ける。
 しかし、同じ距離を走るとなると日常的なトレーニングが必要となる。
 異議はあるが本筋から外れるのでここでは置く。
 氏の感覚的な印象では、原稿用紙1枚は大体1キロを走る事に似ているそうだ。
 であるならば、原稿用紙10枚は実に10キロのランニングに似ている。
 一介のデスクワーカーがいきなり走り始めて完走できる距離ではない。
 トレーニングである。
 書くためのトレーニング。
 10キロメートルの距離を途中で迷うことなく整然と走りきる為の練習。
 それにはまず、量をこなすことだと言う。
 練習の質は量が担保する。
 とはいえ、考えながら練習しないと努力は普通に嘘をつく…と言ったプロ野球選手は誰であったか。
 ただ書き散らかしても意味が無い。
 人に見せる、という意識をもって練習する。
 世に公開する意義である。

・ノートとは何かと問えば、チートツールであると冒頭にて答える。
 情報に溢れた時代である。
 人の脳は機械では未だ再現のできない程に複雑な臓器である。
 それでも、処理しきれない程の情報に溢れた時代である。
 人類が世に誕生してから、今現在に至るまで。
 連綿と受け継がれてきた知の蓄積をグラフに表せば、直近50年においてグラフの角度の急勾配たるや。
 まさに情報爆発と言ってよい。
 しかし、その情報を扱いきるに人の脳は未だ進化の途上にある。
 しかし、我々は進化の時を待ってはいられない。
 テクノロジーを用いるべきである…そういえば脳とコンピュータを接続する試みが進んでいると聞いた気がする。。
 ともあれ、人類は自然に進化の時を待つのでは無くテクノロジーの力を借りて大いに発展してきた生物種である。
 書くこと。
 記録すること。
 共有すること。
 つまりは、ノートの力である。

 人の脳はフィクションを解する。
 文字を…つまりは記号に意味を見いだす事ができる。
 その特性が、生身では制御しきれない文明という名の巨獣を生み育ててきたのかもしれない。



 問い:我々はその一面において情報生命体と呼びうるか?

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