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乾かない、あの日の涙は彼のもの。
8月30日と31日は、記念日だった。
という書き出しを、消して、書き直す。
8月30日と31日は、「記念日」である。
彼についてのことを全て過去形にする癖がついてから、
すこしばかりの時間が経った。
彼と喧嘩をして、別れたのは5月の終わりだった。
きっかけは、些細なことだ。でも、それまで不安とか悲しさとかをうまく押し込めてやってきてしまったわたしは、何を思ったかその「些細なこと」にその「それまでのすべて」を乗っけてしまった。それでも彼には伝わらなくて、なんでこんなに分かり合えないの、と詰めていた息を大きく吐いた。はじめての、彼に対しての溜息。彼に対しての敵意。それが彼にはショックで、所謂地雷を踏んだらしい。その日のうちに「別れよう」と彼は言った。
頭が真っ白になって、そのあととんでもないことをしてしまったとか、申し訳ないことを言った、とか、やってしまったな、とかはもちろん思った。ただ、私がその時いちばん思っていたのは「なんで私だけこんなに許されないんだろう」ということだった。
彼はごめんねを言えない。だから、彼が職場の女の子に気のあるそぶりをしていても、それを得意げにわたしに話してきても、わたしの誕生日を忘れても、わたしと大きな喧嘩をしたあと、ちょろまかした女の子とふたりきりでカラオケにいってそのあとやけくそでホテルにいっても、それをわたしに内緒にしていても、わたしはすべてかわいいやきもちに変換して飲み込んできたのに。
ほぼはじめて伝えた「これがつらいからやめて」を、彼は怒りにすり替えた。
ほんとうに冷めてしまったようで、私に触れるのも触れられるのも嫌だと言った。触れるって?と私が聞くと、手に触れるのもためらう。ハグとかもう言語道断。同僚とハグとかキスとかしないじゃん。それと一緒の感覚。と言い放った。そして部屋のドアを締め切り、わたしを避け続けた。衝撃だった。
…この喧嘩のことを書くと、どうにも彼がとんでもなくひどい人のようになってしまうけど、喧嘩さえしなければとてもとても優しいひとだ。
お互い、2年間、お互いのことを「なんとなくいいなあ」と思っていて、とあることがきっかけで「好きだなあ」になり付き合うことになった。
告白は、彼からだった。夏の公園で、私の手をゆるく握りながら彼はとてもゆっくり「俺と、つきあってください」と言ってくれて、わたしははずかしくて笑いながら「はい」と答えた。
そこからはずっと、ずっとわたしのことを愛してくれていた。こんなに好きになったのははじめてだ、と言って、同時に「こんなにも人を愛せる自分」のことも愛していた。
同棲はほぼ、順調だった。いってらっしゃいとただいまのキスとハグは当たり前で、部屋は別にあってもほぼ毎日どちらかの部屋で一緒に寝ていた。彼はわたしに料理のリクエストをして、わたしはそれに合わせて料理を楽しんでいたし、彼は帰りふらりとスーパーによってわたしの好きな飲み物やデザートを買って来てくれたり、わたしの自転車の空気をしれっと入れておいてくれたりした。彼の「発作」の女癖は残っていたけどそれすらも彼を知る人からすると衝撃的なくらい減っていて、とくに一緒に住んでから彼は、彼の職場の人にわたしのことを惚気て、「9月に結婚するんです」と話しまわっていた。「今日はね、職場の人にラブラブですねって言われたよ」「二年たってもそんなに仲良しなんて羨ましいって言われた」「いい旦那さんですねって言われた」
まだ結婚してないでしょ、なんて笑いながら、わたしはわたしとのことを外で話してくれる彼に安心しながら同時に不安にもなっていた。この人、こんなに話をして、わたしと別れでもしたらどうするんだろう。ずっと一緒なんて保証はどこにもないのに、なんて。でもそれは、彼への心配という服を着せたわたしの予防線だった。
そうしたらそんな予防線は簡単に千切れてしまったのだ。
「職場の人に別れましたって言ったらすごい驚かれたけど、じゃあ仕事頑張ろう…って言われたよ」
と、彼はなんてことなしにわたしに言った。なんだ、そんな簡単に、言えちゃうんだ。わたしと別れても、なんとも、ないんだ。
5月から、毎日毎日ちいさな傷を負っては絆創膏を貼ることを繰り返していた。どうにも仲直りできず6月のおわりを迎えたとき、彼もわたしに対してたくさん我慢したことがあったのだろうなとようやく思った。わたしもたくさん我慢した。でも彼もきっと、全然わたしの気付かないところで傷ついたり飲み込んだり許してくれたりしていたのだ。わたしは彼が好きだから、別れることになったのは私のせいだから、わたしが傷つくのは当たり前だと思っていた。
…ここまで書いて自分でもわかる。別れたほうがいいのだと言うこと。
でも、わたしには、どうしても彼から離れられない「理由」がある。
・・・
その日は、付き合ってはじめての彼の誕生日だった。
彼は家庭環境がすこし複雑なひとで、「誕生日祝われ慣れてないから、ほんとになにもいらないからね」と前々から言われていたのだけど、だからこそわたしはなにかするべきなのではないかと思って内緒でこっそり準備をしたのだ。
ちなみにその前の月はわたしの誕生日だった。「あんまり祝ったことがないのだけど、一緒に過ごしたい」と言ってくれたことがとても嬉しかった。その日は彼の家で過ごすことになりおうちにつくと、彼は得意げに「ケーキ買ってきたから!」と言って白い箱を見せてくれた。わあ、うれしい!と言うわたしにむけてパカッと箱のふたが開けられると、そこにはスイートポテトがよっつ、入っていた。
誕生日=ホールケーキ というイメージを持っていたわたしは心底驚いたのだけど、「色々調べて今一番おいしいって有名なやつにした!期間限定だから!あと女の子に人気って店員さんも言ってたから!」と興奮気味に言う彼がかわいくてどうでもよくなってしまった。ろうそくもプレートもおめでとうの歌もプレゼントもなかったけど、スイートポテトはほんとうにおいしくて、彼とわけっこしながら完食した。彼は終始とてもうれしそうで、私はそれをみてとても幸せだったのだ。ふと気になって「今までの彼女の誕生日はどうしてたの?」と聞くと「俺が祝いごと苦手なの知ってたから、やらなくていいよって言われて、やってない。俺の誕生日も特に何もなかった」と言っていた。その表情を見て、ほんとうにこういったイベントごとに無関心というか、慣れていないのだなあと感じ、彼の育ってきた環境のことを思い出してしまった。
…そんなことがあったので、とにかく彼のはじめての誕生日は「とにかくベタ」なものにしようと考えた。当日は彼の家で過ごすことになっていたから、万全に準備をしてから向かう。予約して買った、真っ白なクリームと、真っ赤なイチゴの乗ったホールのショートケーキに、「お誕生日おめでとう」とおなまえ入りのチョコプレート。新しい歳に合わせたナンバーキャンドル。手紙付きのプレゼントはこっそりどこかに隠す。
たくさんのミッションにドキドキとしながらもとてもわくわくしていた。いつものようにふたりでテレビをみている途中で、こっそりクラッカーと、「HAPPY BIRTHDAY」と派手に装飾されたぼうしを忍ばせて、「お手洗い借りるね」と部屋を出る。ケーキくらいはと思って簡単なの買ってきたから、後で食べようね~なんて言って冷蔵庫にしまっていたケーキを取り出し、おめでたいぼうしを被り、すばやくろうそくに火をつけて、ウェイターよろしく完成した“バースデーケーキ”を片手に乗せる。もう片手にはクラッカーを持って、彼のいる部屋に戻り勢いよくドアを開けた。
「お誕生日おめでとう!!!!!」
口でクラッカーのひもを咥えてパァンと鳴らすと、彼はほんとうのほんとうに鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして完全停止した。うお、引いてる?やらなくていいって言ったのに、って言われるだろうか。
そう思いながらも、ええいいいんだ、誰が何と言おうと今日はわたしにとってもおめでたい日なんだから。と思って「ほら!ケーキおいしそうだよ!」とテーブルに置くや否や。嗚咽が聞こえた。
え、と思い彼のほうをみると、ちいさなこどものように膝を抱えて、その膝に顔を埋めて泣いていた。肩がふるえていて、ひっ、ひっとしゃくりあげながら声を上げて泣いている。
そんな姿をみたのは当然はじめてで、わたしはわかりやすく狼狽えた。ど、ど、どうしたの、と彼を抱きしめると、すごい勢いで抱きつかれる。なおもしゃくりあげる彼はとても熱くて、私の服は彼の涙でどんどん湿っていった。
ずっと同じ熱量で泣き続ける彼に恐る恐る「いやだった…?」と聞くと彼はぶんぶんと首を横に振り、またわんわんと泣いた。ずびずび鼻水をすする彼にティッシュをとってあげようと身体を動かしたら、彼はものすごい力でわたしに抱きつき、「おれのことはなさないで」と、言った。
うん、だいじょうぶだよ、そばにいるよ。と背中を撫でるわたしに彼は
ほんとはずっと祝われてみたかった。おれは素直じゃないし、ほんとうは器用でもなんでもないから、これから先、もしかしたらきみにも素直になれなくなってしまったり、強がりで別れようとか、ひどいことを言ってしまうかもしれない。でも、ぜんぶ強がりだから、覚えててほしい。お願いだから、おれのこと、はなさないで。
というようなことを、ぽろぽろと涙をこぼしながら話してくれた。
彼は、こどもに戻っているようだった。いちどもおめでとうを言われずに育った彼の幼少期の話を思い出し、せつなくて、かなしくていとおしくて、わたしもいつの間にやら泣いていた。そして
わかった。ずっと、そばにいるよ。でも、いつか喧嘩して別れ話になって、あなたにいやだーって言われてもそばにいるからね。覚悟してよね。だけど、だから、ほんとうに嫌になったら、あなたから、ちゃんと離してね。
と。そんな約束を、した。
どうしても、あのときの彼の涙が忘れられないのだ。あれ以来彼があんなふうに涙を見せることはないけれど、でも彼のなかにはあの日の彼がずっといるような気がして。「はなさないで」と言った彼の声がわたしの耳にこびりついて離れないのだ。
ちゃんと離してね、という、約束。
ちゃんと離されるまで、そばにいるという、約束。
7月になって、あの朝があって、あの夜があって。仲直りはもうできない。いい加減に、吹っ切って、出ていくしかない。…そう思って引っ越しを決めたのに、そう伝えたのに、「さみしい」と言われてしまっては。「出ていくことないんじゃない?」と言った彼が、「離れるのは嫌だ」とわたしを引き留めて抱きしめた彼が、あの日にリンクするのだ。
囚われている。
約束は、呪いになって、やさしくやさしく私の呼吸を止めてゆく。
でも、どうせ彼から離れたって
私のなかにいるあの日の彼の涙で、きっと私は溺れるのだ。
どうしたってわたしは、彼を、愛している。
あいして、いるんだ。
・・・
8月30日。
わたしたちの、記念日のはんぶん。
何故はんぶんなのかというと、「彼から告白された日」は8月30日なのだけど、キスをしたのは次の日で、そのとき彼が「夏のおわりの日に結ばれたって素敵だねえ」と言って31日を記念日にしたから。わたしはなんとなくはじめて好きと言ってくれた日を記念日と思っているので、わたしたちにはふたつ記念日がある。
8月30日。
わたしを引き留めたあの日から、彼は部屋のドアを完全に開け放すようになった。柔らかな声でただいまとおかえりを言うようになったし、普通に笑って話をするし、最近は仲が良かったころのようにリビングに座ってテレビを見たりするようになっていた。
ただわたしは、もう散々彼に歩み寄っては大負けして傷を負ってきたので、流石にもうこわくなって隣に座ったり過度に干渉することはなくなっていたのだ。引っ越しに関しても、引っ越すのをやめたことはわたしの口からは言っていない。
でも。
“あの人”と会って、戦うことを決めた。
8月31日。
彼は、リビングでゲームをしていた。
最近やり始めたという、ゾンビを倒すゲーム。この間どんなゲームかを聞いたときは、何度も死んで強くなれという、鬼畜ゲーなのだと言っていた。
「今日もいっぱい死んだ?」
「死んだね。すげー難しい」
「鬼畜なんだね」
「鬼畜なんだよ」
「ねえ」
「…ん?」
「くっついてもいい?」
一瞬の間の後、こくり、と彼は頷いて、ずりずりと座椅子から降りた。
その動きに猛烈な懐かしさを覚えて、嬉しさなのか切なさなのか胸が痛む。仲が良かったころ、彼はゲームをするときわたしを座椅子に座らせて、その足の間に入りこんできた。そうしてわたしは彼を後ろから抱きしめながら、ゲームの画面を見るのだ。
彼の熱の残る座椅子に座って、ずりずりと彼のほうに寄る。後ろから手をまわして抱きしめると、あたたかかった。心臓の音が伝わってしまいそうで、すこし身体を引く。ひさしぶりの彼は、記憶よりすこし、痩せていた。
「やせたね」
「うん…あんま食べれてないから」
「だめだよ食べなきゃ」
「ね」
ぽつりぽつり、話しながら、彼の体温とわたしの体温が混じっていく。境界線がなくなるような、この感覚は、彼とでしか感じない。
ふざけて「落ち着く?」と聞くと彼は少し甘えた声で「うん」と言った。予想外の答えに調子に乗った私が次に「わたしのことすき?」と聞くと彼は、ふざけた声で「すきー」と言った。
びっくりしてへらっと笑ってしまった間に彼はゲームの世界に戻ってしまったけれど、その時のわたしにはそれだけでじゅうぶんだった。そのまま彼の背中にくっついたままゾンビに怯え、彼は6回死んだ。
7回目の YOU DIED を見たときには深夜2時を回っていて、私が「そろそろ寝るかな」と言うと彼は「うん、おやすみ」と言った。試しに「さみしい?」と聞くと間髪入れず「いや全然」と返ってきた。む、これはダメだったか。それなら。
「…おやすみのキスは?」
彼はふふふと笑ったのち、笑いながらわたしにキスをした。
寄りを戻そう、とかそういう話はしていない。
たぶん、戻ってはいないのだと思う。
ただ、なにかが新しく始まっている。
5月のおわりに別れ ひとりとひとりになった私たちは
9月のはじまりに 名前のないふたりになった。