どこかの誰かではない話
2024年8月15日。終戦から79年。
数字だけみると遠く感じるが、終戦の翌日にいきなり場面転換して平和な日常に切り替わったはずもない。
たとえば沖縄返還は昭和47年(1972年)だ。昭和47年生まれといえば第二次ベビーブーム世代、私たちの世代だ。さして古い話ではない。
幼くして戦争を経験された方もご高齢になっている。ましてや戦地に赴いた世代でご存命の方はもう多くはない。
昨年、祖母が亡くなった。98歳だった。20歳そこそこで終戦を迎えたことになる。祖母より5歳上だった祖父も95歳で既にこの世を去っている。終戦の報はアンコールワットの近くで受けたと聞く。
終戦し、男性たちが帰国して所帯をもち、第一次ベビーブームが到来する。その子たちは戦後の混乱期に多くの米兵が往来する町で過ごし、高度経済成長期を支えていく。そして彼らの子、第二次ベビーブームで誕生した私たちはもう肌では戦争を知らない世代だ。
メディアや講演などでは様々な方が戦争体験を語ってくださっている。80代後半から90代前半くらいの方が多いだろうか。非常に貴重なお話だ。
当時の子どもたちから見た空襲や集団疎開、命がけの生活などの話はもちろん貴重だ。しかし、一方で、戦地に赴き、加害者とならざるを得なかった人々の生の声も忘れてはならない。
当時成人だった人はいまや100歳前後だ。いくら長寿の国とはいえ、しっかりとした記憶があり、さらにそれを語れる人となるとかなり限られてくる。どこかの誰かではなく、身内や知人となれば特に。
祖母は横浜中心部で貯金局に勤めており、横浜大空襲を生き延びた。人の姿をしていないご遺体を跨いだり踏み越えたりしたそうだ。
祖父は東南アジアの村で食料や水を得ると、村を去る際に井戸に毒を入れたそうだ。敵が立ち寄ることを考慮してのことだったという。だからだろう、祖父は祖母ほど戦時中のことを語ってはくれなかった。
寡黙な祖父だったが、お酒が入るとよく歌った。やわらかく深みのある良い声をしていた。歌はすべて軍歌だった。それしか知らないんだ、と白くなった眉尻を下げて笑った。
私たちは、親族から生の戦争体験談を聞けた最後の世代である。銃後のみならず戦地の話も後世に伝えられる最後の語り部である。
私たちには言葉がある。語ることができる。話し合うことができる。
私は、言葉の力を信じている。