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「忘れる」機能のありがたさ

会社の定期検診でひっかかって以来、定期的に総合病院に通っている。とはいえ幸い悪いところは見つからず、血液検査の数値を見守る経過観察が続いている。

通い慣れたこの病院はわりと新しくて快適だ。
天井は高く、スペースをゆったりとった近代的な造り。大きな窓は中庭の植栽や遠くの山々が見える配置になっている。
ずらりと並ぶソファで静かに待つ人々はなにかしら患っていて、不安とか苦痛を抱えてそこにいるはずなのだけれど、明るく開放的な空間のおかげで、他人のそれを意識せず、自分だけに向き合って過ごすことができるのがありがたい。


今でこそ快適と思えるこの病院も、初めて足を踏み入れた時は違った。ぎゅーっと胸が締め付けられるような心理的圧迫感。理由はわかっていた。広々とした大きな病院そのものがトラウマとなっていたのだ。

その2年ほど前、交通事故に遭った夫の1年間の入院生活を支えた。
6回の手術と6度の転院。余裕でワンクール分のドラマになりそうな色々があり、私自身にとっても、つらい1年だった。
巨大な病院の空間は、その頃の記憶を呼び起こした。大きな病気に行くたびに自らのダメージを知った。

今でも思い出すとチクリと胸が痛む。けれどもその痛みは当時ほどではなくなってきた。考え抜かれて設計されたであろう病院空間の快適さを感じられるまでになったのだから。

ケガはいつか治るし痛みもいづれ忘れるけど、心の傷はずっと残る、なんていうけれど、それでもやっぱり時が経つにつれて記憶は薄らぐ。
つらかったとか、苦しかったという実感は覚えていても、実際の痛みは確実にやわらいでいく。

「人間は忘れていく生き物である」と言ったのは、忘却曲線で知られる心理学者、ヘルマン・エビングハウス。
同居する母の物忘れがひどくなる姿にイライラしてしまう日々だけれど、今日はつくづく、忘れる生き物でよかったなと、自分勝手に思ったのだった。

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