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宇多田ヒカルの祈りと伊藤忠の菩薩道
宇多田ヒカルさんの『SCIENCE FICTION TOUR 2024』、本当に素晴らしかったです。心の底から、楽しむことができました!
宇多田さんは、このツアーを、「みんなが安心して心を開ける場所にしたい」と語っていました(伊藤忠『星の商人』No.17、2024)が、まさにそのとおりの場所でした。
では、どのようにして「みんなが安心して心を開ける場所」になるのか。宇多田さんの言葉に注目しましょう。
非日常から見えてくる日常とか、他者から見えてくる自分とか、そういうものをいろいろ感じられる、みんなが安心して心を開ける場所になるといいなと思います。
あれ?ここに難しさや違和感を覚えてしまいました。
日常を離れた視点から日常生活を見たら、ふだんは意識していない自分のヤバい面が明らかになって安心できないのでは。
他者から自分がどのように見えているかを意識したら、恥ずかしくてかえって心を開けないのでは。
安心して心を開けるどころか、逆に不安で心を閉ざしてしまうことにならないか。これは一体どういうことなのでしょうか。
この謎を解くカギは、「何色でもない花」にあると思います。
宇多田さんは「何色でもない花」について、「SCIENCE FICTION」interviewで大変興味深い発言をしています(1:40〜)。
形がない色がないっていうことは 存在が危ういというか
形あるものでさえ 本当に存在してるのか
真実も主観的なものなんじゃないのかとか
その存在の危うさでいうと 不確かさでいうと
シュレーディンガーの猫とか
量子力学でも物事が観測されるまで存在するか 存在しないんじゃないかとか
シミュレーション仮説とか いろいろな考え方もあるし
自分の気持ちを信じるっていうのは難しいことだなって思って
それをどう信じたらいいのかな
何かを信じたいのに信じられない時ってどうしたらいいのかなって考えてこういう歌に
自分を信じられなかったら何も信じられないし 自分も存在していないようなもの
「何色でもない花」とは、形や色がない自分の心のことだと思います。その心に、さまざまな形や色があるものが現われます。例えば、形や色がない心という場所に、他人たちが目に見える姿(形)をもって現われます。家族や恋人もそうです。さらには、自分自身でさえもそうです。自分の心の中に、姿(形)を持った自分が現われます。私たちの日常は、形や色を持って現われるもので彩られています。
一方、形や色がある日常のすべてが登場する場所としての自分の心は、日常的に意識されるわけではありません。その意味で、非日常です。そのことを宇多田さんは「何色でもない花」と歌ったのではないでしょうか。
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形や色があるものは容易にその存在をとらえることができます。「何色でもない花」には形や色がありませんから、それが本当に存在しているのかどうかを確かめられません。形や色があるものは、その存在根拠を科学的に因果関係によって説明できます。しかし、形や色がない「何色でもない花」はその存在根拠が全く分かりません。だから、その存在を信じるほかありません。宇多田さんは、その存在を確かめようのない「何色でもない花」が「真実」なのだと歌います。
「みんなが安心して心を開ける場所」を可能にする「非日常から見えてくる日常を感じること」とは、ふだん私たちが意識しない「何色でもない花」から日常が見えてくること、つまり非日常としての「何色でもない花」に想いをいたすことなのだと思います。
「他者から見えてくる自分」についても、この文脈から考えてみます。そうしますと、ここでの他者や自分は、形や色があるものではなく「何色でもない花」です。この歌には、”I'm in love with you”、”In it with you”という歌詞があります。「何色でもない花」どうしの愛とか共存とはどういうことか。
形や色がある自分と他者の関係ならば、(なんらかの形や色がある)人柄を好きになったり、(なんらかの形や色がある)考え方に共感することが、愛や共存につながっていきます。「あなたの◯◯(形や色)なところが好き」というわけです。でも、「何色でもない花」には形や色がありませんから、何かを好きになるとか何かについて共感するということが生じません。◯◯と言い表すことができない存在そのものを愛し、共存する。宇多田さんは、そういうことをイメージしている気がします。このことを、さらに考えるために、2022年のジェーン・スーさんによるインタビューを見てみましょう。
宇多田:
人と共存することは、自分が生きることと同義だと思うんです。でも、というか、だからこそ、私は人と共存することとずっと葛藤してきたし、幼少期からの一番のテーマです。他の人間は危険な存在でもあるし、でもなしでは生きられないし、どう共存できるんだろうって、ずっと考えて歌にもしてきて。今はなんか「ただそういうことか」って受け入れられるようになってきたというか。それは母親と息子のおかげかなと思います。
スー:
「そういうこと」を、もう少し説明していただけませんか。
宇多田:
私は人の反応を気にしちゃうほうで、ちょっとした表情とか返事で、「あれ?この人を怒らせちゃったかな?」とか「さっきのあれ誤解されたかな?」「でも聞くのもあれだし」って一日二日考えちゃうタイプなんです。親しい人とだったらそんなこと何度でもあるし、もっと重いこともあるじゃないですか。お互いに誤解があったり、勝手に傷ついたり、相手を傷つけちゃったり。人を愛するってなると、相手の受け入れ難い行為も含めてそういうこともする人として賛同までしなくてもいいけど、受け入れないといけない。というか、受け入れたい。お互いに傷つくのも当然。相手を傷つけることを恐れすぎるのも良くないってことかな。今ちょうどカミュの『シーシュポスの神話』を読んでるんですけど、彼の語る「不条理」を受け入れて生きるしかない、ということですかね。
ここに出てくるカミュ『シーシュポスの神話』の「不条理」とは、次のようなことです。
たとえ理由づけがまちがっていようと、とにかく説明できる世界は、親しみやすい世界だ。だが反対に、幻と光を突然奪われた宇宙のなかで、人間は自分を異邦人と感じる。この追放は、失った祖国の思い出や約束の地への希望を奪われている以上、そこではすがるべき綱はいっさい絶たれている。人間とその生との、俳優と舞台とのこの断絶を感じとる、これがまさに、不条理の感覚である。
カミュの「不条理」を受け入れて生きるとは、「何色でもない花」としての存在を受け入れて生きることです。カミュが言う親しみやすい「説明できる世界」が、形や色がある日常に相当します。もう一方の「不条理」は、説明ができない世界、つまりは説明の手がかりがまったく得られない、形や色がない「何色でもない花」を指します。
「不条理」を受け入れることはつらいことです。でも、形や色がある「説明できる世界」で価値観や意見が全く異なる他者とのあいだに共存の可能性を開きます。説明できない「何色でもない花」は、価値観や意見といった説明が現れる以前の、それらが現われる場所そのものだからです。
そして、「何色でもない花」が存在することは奇跡と言えます。形や色がない「何色でもない花」は、その存在理由を説明できません。形や色があるもの、例えばこのnoteを書いているMacBookは、様々な作業を効率的に楽しく進めるために先進的な技術を使って存在するに至りました。形や色のない「何色でもない花」の存在については、そういう説明ができません。なぜだかよくわからないけれども存在する。これを奇跡と言わずして何と言いましょうか!
「不条理」すなわち「何色でもない花」を受け入れるとは、「何色でもない花」が共に存在するという奇跡を祝福する祈りのことなのです。
「他者から見えてくる自分」を感じることとは、「何色でもない花」としての他者が「何色でもない花」としての自分を見ていることを感じること。それは「何色でもない花」が共存する奇跡を一緒に祝福することにほかなりません。
「非日常から見えてくる日常」とか「他者から見えてくる自分」を感じることが、「みんなが安心して心を開ける場所になる」ことをもたらすのは、共に存在することを祝福する祈りでその場所が満たされるからなのでしょう。
まさに、「Electricity」で歌われる"I just wanna celebrate with you"です。
私たちの細部に刻まれた物語
この星から文字が消えても終わらない
文字は形や色があるものを作り出します。それが消えても、「何色でもない花」に刻まれた物語は終わりません。「何色でもない花」どうしの祈りは永遠で、時空を超えていきます。
アインシュタインが娘に宛てた手紙
読んでほしい
愛は光 愛は僕らの真髄
このように考えていくと、「Electricity」に歌われる"Electricity between us"とは、「何色でもない花」どうしがささげあう永遠の祈りを表現しているのではないでしょうか。
光には形や色がありません。まさに「何色でもない花」です。
仏教で言えば、永遠の光を象徴する大日如来や阿弥陀如来です。
急に仏教の話が出てきて恐縮ですが、これは「Electricity」をCMソングにした伊藤忠さんが仏教の菩薩道を標榜しているからです。
商売は菩薩の業、商売道の尊さは、
売り買い何れをもを益し、世の不足をうずめ、御仏の心にかなうもの
https://www.itochu.co.jp/ja/about/mission/index.html
仏教の菩薩道とは、あらゆる存在に、仏としての光を見出し、つまり宇多田さんが歌う「何色でもない花」を認め、その存在の奇跡を祝福する祈りをささげるものです。
伊藤忠さんのCMでは、「『おかげさまで』が地球を回す力がなればいいのに。」とか「おかげさまで、幸せです。」と語られていて、「おかげさまで」という言葉が、「三方よし(売り手よし、買い手よし、世間よし)」という企業理念を表現するキーワードになっています。
このCMに関する伊藤忠さんのwebでは、「おかげさまで」を相互に支え合う人々の姿として描き出しています。
おかげさまです。
こちらこそ、おかげさまです。
互いが互いを、熱い日差しから守る「陰(かげ)」になる。
そう動き出せるココロとカラダを作ろうと、
切磋琢磨し、しのぎを削る。
https://www.itochu.co.jp/ja/corporatebranding/topics/2024/tvcm_spring.html
誰かが誰かを助ける。そういう善行が人々のあいだを巡環していくことで世間全体がよくなっていいく。自己利益の際限ない追求が社会を分断していくと言われるなか、伊藤忠さんのようなグローバル巨大企業がこのようなメッセージを発することには、とても大きな意味があります。
宇多田さんは、この「おかげさまで」について、さらに深い意味を与えます。
「おかげさまで」ってどういう語源なんだろう、なんで「陰」なんだろうと気になって調べてみたら、「日差しが強いときに木陰に座っている人が影に『ありがとう』と言った」という説がでてきて。想像していなかったルーツで面白かったです。木はただ自然にあるもので私を守ろうとしているわけじゃないけれど、そこにあるものに気づいて、ありがたいと思う。それも素敵だなと思いました。
木は、誰かを助けようとしているわけではありません。ただ、存在しているだけです。それが存在していること、それ自体をありがたいと思う。ここに「何色でもない花」が共存する奇跡を祝福する態度と同じものを見て取ることができます。"I just wanna celebrate with you"、木との間に"Electricty"を感じるというわけです。
お互いが困っていることを助け合うことは、言葉で説明することができます。そこには、形や色があります。形や色がある次元での助け合いという意味での「おかげさまで」が進めば、世界はきっとよくなっていくでしょう。さらに、その背後にある存在の奇跡を祝福する"Electricity"としての「おかげさまで」が、「三方よし」の地球をしっかりと回す力となる。それが、伊藤忠さんの菩薩道なのだと感じ入りました。
苛烈な競争に打ち勝ち業績拡大に勤しむ総合商社が、このようなメッセージを発することは画期的なことです。宇多田さんと伊藤忠さんの素晴らしい取組みが、新たなビジネスのあり方を切り拓いていくきっかけになることを願ってやみません。
<補足1:「PINK BLOOD」と「Electricity」>
宇多田さんの「PINK BLOOD」に以下のくだりがあります。
サイコロ振って一回休め
周りは気にしないでOK
王座になんて座ってらんねえ
自分で選んだ椅子じゃなきゃダメ
ここに「他者から与えられた道ではなく、自分の人生を生きよう」というメッセージを感じます。独立した自由な生き方です。これは、カミュの「不条理」を受け入れて、「何色でもない花」として生きていく姿の表現ではないでしょうか。そのうえで、「Electricity」は「何色でもない花」たちの愛や共存を語っているのだと思います。
<補足2:"Electricity"と死者>
伊藤忠さんはCMで「Electricity」を採用した理由について、「時空を超えていたとしても、想いは伝わる、届くということ」と言っています。
CM楽曲には宇多田さんの新曲「Electricity」を採用しています。たとえ遠く離れていても、時空を超えていたとしても、想いは伝わる、届くということを、楽曲とSF的なCMの世界観から感じていただきたいと考えています。
https://www.itochu.co.jp/ja/news/press/2024/240401_2.html
本稿では、「何色でもない花」が永遠だといいましたが、それは時空を超えることと同義です。「何色でもない花」どうしの"Electricity"は、時空を超えていきます。宇多田さんは、『Fantôme』で、死者との共存を表現されましたが、それは「何色でもない花」の共存としてとらえることができると思います。