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小説 雨の日のこと
その日は雨が降っていた。わたしはココアをつくるためにミルクパンで牛乳を温めながら洗い物を片付けていて、これが「ながら族」ってやつか、なんてくだらないことを考えていた。はるちゃんから電話がかかってきたのは、そんな時だった。
はるちゃんはわたしより2つ年下、つまり高校3年生、の女の子で、わたしの母方のいとこだ。中学生のときはちんちくりんだったのに、高校に進んでから見た目も性格もぐんと大人びた。わたしとはるちゃんで買い物に出かけると、はるちゃんのほうが「お姉さんですか?」と声をかけられるくらいだ。
はるちゃんはそんなに陽気なひとではないのだが、どこへ行っても自然とその空気に馴染むことができる。大して面白いことを言うわけでもないのに、はるちゃんの知り合いはみんな、遊びに行くときにはるちゃんがいないと何か物足りないと感じる。だから、はるちゃんは人気者だ。今年の夏は4回も海に行ったと言っていた。
それでも彼女はときどき頼りない声でわたしを電話で呼び出すことがある。その日の電話もわたしに助けを求める内容だった。
「どうしよう、わかなちゃん。わかんなくなっちゃった」
普段はしっとりと落ち着きのあるはるちゃんの声が、不安定にゆらゆらと揺れている。わかんない、とはまた大きく出たな、と思いつつも、
「わかんないって何が?」
信じられないくらい優しく問いかける。
「わかんない」
「それじゃわけわかんないよ」
「いまばばちゃんの家にいるんだけど」
「うん」
「来てくれる?」
「ばばちゃんは?」
「デイサービスに行ってる」
「じゃあ、行く」
正直なところ、わたしはこういう瞬間が嫌いではない。普段はしっかりしていて大人びていて人気者のはるちゃんを、こういうときだけはわたしひとりが独占しているような気がするのだ。あの、みんなから一目置かれているはるちゃんが最終的に頼るのは自分なのだ、と思うと嬉しくてとても満たされた気持ちになる。
家から3つ先の駅で別の路線に乗り換えて、そこからさらに7駅先にあるばばちゃんの家は、狭苦しいアパートで、煮物とタバコのにおいが混じり合ったにおいがする。ばばちゃんは福岡の商家の娘だったらしく、とてもプライドの高いひとだ。そのせいなのかどうかはわたしにはわからないが、長女であるわたしの母親とはとても折り合いが悪い。おそらくその延長で、ばばちゃんはわたしのこともあまり好きではないらしい。その一方、ヒロミおばさん(母の妹である)の娘のはるちゃんのことは溺愛していた。幼い頃からことあるごとにはるちゃんを呼び出して、洋服を仕立てたりお小遣いをあげたりしていたのだ。
もちろん、わたしはずい分大きくなるまでそのことを知らなかった。ずい分大きく、と言ってもそのときわたしは小学校5年生だった。夏休み中のその日、暇をもてあましたわたしは、はるちゃんと市民プールへ行こうと思い立ち、誘いの電話をかけるために受話器をとった。するとはるちゃんが出たので、プールへ誘うと「今日はばばちゃんの家で浴衣を仕上げてもらうから行けない」と断られたのだ。ばばちゃんの家なんて正月とお盆の法要のときにしか行かないものだと思っていたわたしはひどく驚いて、驚きついでによくよく話を聞くと、はるちゃんは少なくとも月に2回はばばちゃんの家に通っているということがわかった。そのときまで、わたしはいくら憎たらしい娘が生んだ子だとしても、孫というのは無条件に可愛いものだろうと子ども心にも信じきっていて、ばばちゃんにとって、わたしもはるちゃんも等しく可愛い孫なのだと思っていた。実際、正月や法要のときにばばちゃんの家に行くと、ばばちゃんはお年玉やお小遣いをくれて、ニコニコしながら「またお姉さんになったね」とか言って、わたしの好物であるエビフライ(今思うとはるちゃんの好物もエビフライだった)を揚げてくれたのだ。しかし、ばばちゃんにとっての可愛い孫ははるちゃんだけで、わたしは孫という続柄に生まれた、ただの子どもだったのだ。電話を切ったあと、なんだかばばちゃんにもはるちゃんにもヒロミおばさんにも裏切られたような気分になって、それ以来はるちゃんを電話で遊びに誘うのはやめた。
そんなばばちゃんの家にわたしを呼び出すなんて、はるちゃんは少し無神経だ、とは思う。しかし、こんな風に焦燥しきってしまったときのはるちゃんは普段の大人びた雰囲気が嘘のように消えて、なんにもできない女の子に成り下がってしまうのだ。
半年ぶりに訪れたばばちゃんの家は、やはり狭くて小汚かった。そして、タバコと煮物のにおいが染み付いていた。日当たりと風通しが最悪なのに加えてそんなにおいがするので、空気が目に見えて淀んでいる。はるちゃんは仏間兼ばばちゃんの寝室に当たる6畳間の端でばばちゃんのタバコを吸っていた。
「来たよ」
「早かったね」
はるちゃんはこちらを見ずに答える。わたしはちょっとムッとしたので、わざと大きなため息をつきながら六畳間の入り口あたりに座って、
「乗り継ぎがうまくいったから」
と言った。しかし、今のはるちゃんにはわたしのいらだちを受け止める気がないらしく、灰皿代わりにしているのであろう線香立てに灰を落としてから、必要以上に大儀そうな口ぶりで
「そっか」
と答えた。
「ばばちゃん、何時に帰ってくるの?」
「たぶん3時ぐらい」
「じゃあ2時半には帰るね」
「うん」
はるちゃんに呼び出された時は、いつもこうだ。電話では今にも泣き出しそうな声で「わかなちゃん」とわたしを呼ぶのに、顔を見て話すと思いの外ケロっとしているのだ。それでも、いつものはるちゃんとは違って落ち着きがないし、わたしの目を見て話さないし、今もこうしてタバコを吸う片手間に畳のへりを爪で引っ掻いている。がり、がり、という音がだんだん大きくなってきて、このままだとはるちゃんのつややかな爪に傷がついてしまうのではないかと思い、急いで
「『このあいだ、お友達と待ち合わせをしてたんです。渋谷で。それで、向かってる途中におじさんとすれ違ったんですけど、そのおじさんが振り返って『君、駄目だよ、みっともないよ、そういうのは』って言うんです。でも、わたし歩いてただけなんですよ。だから、そのまま歩いて待ち合わせ場所まで行ったんです。それで、お友達と合流したらその子に『パンツ丸見えだよ!』って言われて、見たら、スカートがめくれてて後ろから見ると下着が丸見えだったんですよ!』って壇蜜が言ってたよ」
と言った。
「嘘でしょ」
はるちゃんは畳のへりを引っ掻くのをやめて、顔を上げて言う。
「嘘じゃないよ」
たくらみが成功したわたしははるちゃんの目をしっかりと見据えて、言う。
「嘘だ」
「なんで?」
「だって壇蜜ノーパンじゃん」
「あそっか」
「わざと変なこと言ってるでしょ」
はるちゃんはそう言ってから、煙を吐き出し線香立てにタバコを押し付けて消し、立ち上がった。どこへ行くのかと思い、動向をじっと見守っていると、わたしの目の前で立ち止まってその場にしゃかんだ。そして、わたしの反応を見逃すまいと目を覗き込んでくる。
「タバコ吸うのってどんな感じなの?」
逃げるように尋ねると、はるちゃんはしゃがむのをやめて、その場に体育座りになり
「うーん、ばばちゃんちの家の空気を10万倍に濃縮したやつを吸ってるような感じ」
と答える。
「なんか生き急いでるね」
「しわくちゃのおばあさんになりたいんだよね」
「今すぐ?」
「今すぐ」
「それは無理だよ」
「知ってる」
はるちゃんはそう言うとその場にごろんと寝転び、目を閉じた。
「知ってるけど、もっと早く楽になりたい」
わたしは、楽になりたいという一節にぞわりと粟立つものを感じて、即座に
「楽になるって死ぬってこと?」
と聞き返す。
「生きながらにして楽になりたい」
はるちゃんはそう言ってから目を開け、こちらを向いてニヤリと笑った。年相応の、若さ溢れる表情だった。ふと窓の外を見やると、雨は止んでいた。
それからしばらくお互いの近況について報告しあいながら冷蔵庫にある白くまアイスを食べていると、14時半になったので、わたしはばばちゃんの家を出た。
7駅先で乗り換えて、それからまた3駅先まで電車に揺られ、やっとのことで家に着くと、わたしはなんとなくはるちゃんに馬鹿にされているような気がしてきた。せめて交通費くらい出してくれればいいのに、もしくは、はるちゃんがうちに来ればよかったのに、と頭の中だけで文句をたれつつ、手を洗うためにキッチンに入ると、コンロの上に乗ったままのミルクパンが目に入った。家を出るときに火は消したので焦げ付いてはいないが、牛乳は冷え切っていて、表面には薄い膜ができていた。わたしは、膜がやぶれないようにそっとつまんで口に入れた。口触りも喉ごしも悪いそれを、昔はるちゃんがわたしの代わりに食べてくれたことを思い出しながら、再びコンロの火をつけた。