【石の街】攻防記(全セクション版)
1・序
▢▢▢▢▢
その日、大量の水が街を襲った。
呪術結界が施された強固な石の外壁が、轟音と共に押し寄せた水流によって破壊された。
外部からの攻撃だ。
やつら、とうとうここまで力をつけやがったか。自治会のおじさんがぼやいた。度重なる攻撃が段々と威力を増しているのは、僕も感じていた。
ひとしきり荒れ狂った濁流は、昼前には収まった。幸い死者は出なかったが、街中が水浸しになった。
誰しもが異変に気づいたのはその頃だ。水が一向に引かない。
広場で僕はとても奇妙な光景を目にした。
斜面の石段をゆっくりと、下から上へ水が流れている。
飛沫がゼリーのような固まりとなって空中をフワフワ浮いている。
この現象は何だ。僕は書物で得た知識に照らし合わせ、ようやく気づいた。
「反克の術だ!」
土克水の逆、水克土。
まずい。水が飲めなくなっている。
まだ影響は人体に及んでいないが、状況が加速すればこの限りではない。
結界内の物理現象が、緩やかに綻び始めていた。
▢▢▢▢▢
2・正午
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木、火、土、金、水。
世界を構成するエレメント。
木は燃えて火を生み、火は燃えたものを土に還し、土は月日の重みにより金属を生む。金属は冷えてその表面に水を生み、水は木を育む。このサイクルが相生だ。
一方で、木は土の養分を奪い、土は水の流れをコントロールし、水は火を消す。火は金属を溶かし、金属は木を斬り倒す。このサイクルが相克である。
この世のあらゆる物理現象は、この誕生と破壊のサイクルによって説明できるのだという。実際にはこれらの相互作用が複雑に絡み合い、それとは分からない形で発露するため、余人にはエレメント単位にまで分解してその作用を読み解くことは叶わぬものなのだと思う。
相生、相克。この自然法則を、もし反転させたらどうなるか。反生、反克。邪悪なる禁忌の術だ。
今、目の前で起こりつつあるのが、それに違いないのだ。
気づいているのは、おそらく僕だけ。早く皆に知らせなければ……!
広場の光景を前にして立つ人だかりに向かって駆け出す。だが、どう説明すれば。
「あ、ケン」
同学年の女友達、ユメが僕に気づき、笑顔で振り返った。やはり皆、まだこの危機的状況を呑み込めていないのだ。
「……ありゃあ、すげぇなぁ。」
広場の斜面をゆるやかに遡る水流を眺めながら、ヒョウの親父さんが呑気な声を上げている。
「あれは、反克の術といって……」
焦って口を開くも、誰もが広場の様子に気を取られており、聴いてくれそうな素振りを見せない。
ふと気づくと、ユメだけが僕にじっと視線を注いでいた。
「はんこくの術って?」
僕は身振り手振りを交えつつ、ユメに一生懸命説明した。相克を逆転させるのが反克であること。自然の摂理に反する呪術はいずれ人体にも影響するかもしれないこと。彼女は目を逸らすことなく、僕の話を聞いてくれているように見える……伝わっているだろうか?
「じゃあ、これはどうかな?」
ユメがやおら、髪飾りを外して僕に渡してきた。金色の細い金属棒が繊細な曲線を描く、華を模した意匠だ。思わず受け取って、一瞬どういうことだろうかと考える。ユメは僕の顔を見つめている。
……そうか!
金属の髪飾りを、傍にあったベニヤ板の上にそっと置いてみる。すると髪飾りはゆっくりと、熱した飴細工のように柔らかくなり、ぐにゃぐにゃと溶け始めた。これはおそらく……金克木の逆、木克金。いよいよ只事ではない。
もしかすると人間の身体も広義では「木(もく)」にあたるのか……? 今のところ、指で持っただけで髪飾りがミルクチョコレートのように溶け出す様子はなかったが……。
……いや、それより重大な問題がある。
例えば、木造建築が金属骨格で補強されている場合、金属骨格が木に負けて溶け、すでに建物ごと倒壊してしまっているのではなかろうか。幸い、この街の建造物は殆どが石造りなので、見渡せる範囲でそのようなことは起きていないようだが。
むしろこの場合の問題は……石が「土(ど)」なので……ええと……木克土の逆は土克木だから……建物内の木材が石に負けて溶けていたりする……? あるいは人間の肉体も時間の問題で街の素材に負けて、スライムのように溶けてしまうのか……?
「おうい、ケン! そこの公民館にも水が流れ込んでるぞ! 2階に取り残された人がいないか、見てきてくれないか。」
巡回警邏に当たっていた自治会のヨル小父さんの声が、恐ろしい想像に戦慄する僕を、我に返した。石造りの公民館は倒れていなかった。だが、いつ何が起きてもおかしくない危険な状態なのは確かだ。急がなければ。
「わかった!」
ヨル小父さんに叫び返す。
「……じゃあ、行ってくるね。」
ユメにそう言い残すと、僕は駆け出した。
建物の中は既に水浸しだった。シャバシャバとせせらぎの音を立てながら階段を水が遡上しており、さながら反転する滝のような有様になっている。水は自重でいくらか押し戻されているようで、衝突してできた無数の飛沫が空中を所在無げに漂う。流れはまだ緩やかだが、勢いは広場で見たときよりも、心なしか加速しているように思えた。もし2階に人がいれば、徐々に水嵩が増してゆく部屋で溺れてしまうかもしれない。階段を流れる水の深さはくるぶし程度。ばしゃばしゃと飛沫を跳ね散らかしながら、僕は一段抜かしで2階へと駆け上がった。
2階は膝下くらいまでの水位になっている。廊下をじゃぶじゃぶと歩きながら、部屋を順繰りに確認してゆく。木製の扉や窓枠は、案の定、真夏のチョコレートみたいに、ぐにゃぐにゃになって撓んでいた。建物内は無人で静まり返っている。すでに避難済みなのだろう、取り残された人はいなかったようだ。
そこでふと気づいた。
水が集まってくるこの部屋部屋には、なにか恐ろしい……そう、「恐怖そのもの」が、澱のようになって空気中に満ち満ちている。
名状しがたい危険を察知した僕は、慌てて反対側の階段を駆け下りた。遡上する水流に足を取られ、驚くほど降りづらかった。
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3・未の刻
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その日の昼過ぎ、街の全住人が『地下広場』へと集められた。
この街の地下には、防壁で囲まれた地上の街とほぼ同面積の、円筒形の空洞が広がっている。それはさながら、巨大な缶詰の内側だ。普段使用されることはないが、いざというときにはシェルターとしての役割を担う。地面に設置された無数の照明装置が、高さ数十メートルもの天井を弱々しく照らし、どんよりと薄暗い空間を作っていた。
水を一滴も飲めぬまま午前中を働きまわった僕らの間には、すでに乾きによる苦しみが蔓延し始めていた。皆、落ち着かない様子で、ざわついている。
反克の術は、じわじわと街を蝕んでいる。この地下空間にはさらなる呪術防壁が施されているというが、その効力は如何程だろうか。果たして水を飲んでも大丈夫なのか。我々はどうなってしまうのだろうか。
待つこと四半刻程。
不意に壁面の一箇所にある扉が開き、腰の屈んだ小柄な老婆が、両脇に屈強な護衛2名を従えて姿を現すと、群衆のざわめきは次第に静まっていった。石の街の呪術師、偉大なるヴァルデンベーラ媼だ。この街を築いた最初の10人の、最後の生き残り。噂では齢190を超えているという。地下広場の中央にある祭壇まで真っ直ぐに敷かれた臙脂色のカーペットの上を、身の丈よりもある樫の古木の杖を用いながら、覚束ない足取りで、ゆっくり、ゆっくりと進んでゆく。誰もがその様子を見守っている。
やがて祭壇へと昇ったヴァルデンベーラ婆は、無言のまま古木の大杖を水平に突き出したかと思うと、その場でぐるりと身体を360度回転させた。杖の先端からエネルギー波が迸り、それは水流の様な視覚的錯覚を伴って、地下広場全体を同心円状に広がっていった。エネルギー波が身体を通過した瞬間、僕はそれまでの渇きが瞬時に癒えるのを感じた。原理は分からないが、街の住人全員の体内に水分補給する高等術を用いたのだろう。
どよめきが収まると、婆はそこで初めて声を発した。
「……この街は『外』より攻撃されておる。」
深くしわがれた、だが、よく通る声が反響する。
「一見、単なる水攻めに思えたじゃろうが……押し寄せた水流そのものが問題なのではない。水に、邪悪なる術が施されていたのじゃ……。」
やはり、そうか。
「『外』の呪術師達の仕業じゃ……自然の摂理たる五行の流転を反転させる、禁忌の術がある……『反克の術』という。術が及ぶのは水が触れた箇所すべて……加えて、術の効果は次第に隣接する万物へと伝染してゆく。つまり、街のほぼ全域が攻撃の対象となっているのじゃ。捨て置けば、やがては街全体が溶けて渾然一体の靄のようになってしまうじゃろう。じゃが、これは遅効性の毒……。術の拡がりにはまだ時間がかかる。生きた人間の身体に効果が及び始めるのは丸一日と数刻。当然、それまでに解呪せねばならぬ。」
いまや群衆は静まり返り、その視線は呪術師ヴァルデンベーラに注がれていた。彼女の深遠なる濃緑の眼差しが煌めいた。
「明朝、解呪の儀式を執り行う。……そのためには、街の若い男が6名! 上半身裸でトロッコ列車に乗り込み、街中に敷かれたレールの上を爆走しながら、音を立てて冷やしざるうどんを啜るのじゃ……!!!!!」
避難所全体を深い沈黙が支配した。
情報量が多くて脳の処理が追いつかない。
半裸……トロッコ……ざるうどん……?
「6名じゃ。我こそはという若い衆は、この場で名乗り出るがよい。」
大呪術師ヴァルデンベーラ婆は、そう言うと黙り込んだ。
わけがわからないが、五行エレメントの物理現象への表れ方というものは複雑であり、専門的な術式ともなれば更に余人には理解しがたい手法であったとしても何らおかしくはない。まあ、街の呪術師が言うのだから、それが解除の手段なのだろう。
若い男。僕を含めても、この小さな石の街には、そんなに多くはないはずだ。6名も必要なら、名乗り出ておくべきかもしれない。何より、この状況を何とかしたい。
なぜか一瞬、ユメのことが脳裏を過った。この群衆のどこかで聴いているだろうか。
気づくと、僕は挙手して叫んでいた。
「やります! 僕がやります!!」
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4・明朝、巳の刻
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翌朝、街は異様な空気に包まれていた。
僕たちの目の前には、呪術防護を施された真新しいレールが敷かれていた。朝の光を反射してピカピカと輝くそれは、縦横無尽に無数のカーヴを描いて、広場から街のあちこちへと伸びている。この広場からスタートし、街中を隈なく巡るコースとなっているのだそうだ。街の住人の半数以上が駆り出され、夜を徹して行った工事の賜物だ。
街の其処此処で、すでに靄の様に曖昧に溶け合った状態になっている箇所も出始めていたが、そうした場所にも、本来地面があった位置を正確にレールが貫いていた。
レールの施設作業に従事した者を除く残りの半数は、予測される攻撃の第二波に備え、すでに外壁の補修に取り掛かっている。第二波がいつ来るかは正確には分からないが、少なくともあれだけの大規模呪術を駆使すれば呪力のチャージに丸二日は要するであろう、というのがヴァルデンベーラの見立てであった。
呪術駆動による自走式トロッコに乗り込むのは、今回の作戦の要となる、僕を含めた志願者6名。同級生のフィコやヒョウもいる。トロッコは屋根のないシンプルな箱型で(列車形態にするには間に合わなかったようだ)、僕たち6名を二列縦隊の形に乗せて丁度よいサイズとなっていた。
各自の前には、冷やしざるうどんが沢山盛られて置かれている。めんつゆは潤沢にあるが、トッピング具材の類は無い。
どうやら必要なのは、あくまで
・若い男が
・上半身裸で
・冷やしざるうどんを
・勢いよく音を立てて啜りながら
・街中をトロッコで爆走する
ということらしい。
うどんは、一人あたり、ざっと5~6人前くらいだろうか。大丈夫、食べきれる量だ。むしろ街を一周する間に足りなくなるようであっては術式に支障をきたすので、余るくらいの方が望ましい。
「うどんを啜る音……これを街の隅々にまで届かせることが肝要なのじゃ……」
ヴァルデンベーラ婆の言葉が蘇る。
トッピング具材については、実のところ、あった方がうどんは食べやすい。しかしながら、相対的にうどんを食べる量が減り、啜る音を出せないタイムラグが相当程度発生することを考えると、術式の効力を減じてしまい、本末転倒だ。つまりはそういうことだろう。用意されていないのには頷けた。
もともと、食べる量には自信がある。僕は痩せ型なので意外に思われることが多いのだが、実はまあまあ大食いの部類に属している。食べても太らないのは、もしかすると遺伝的な要因もあるかもしれない。先の呪術大戦で死んだ祖父もそうだったと聞く。
大量のうどんを前に、僕は内なる闘志が漲るのを感じた。街を救う闘いだ。相手にとって不足はない。僕は上着とシャツを脱ぎ捨て、トロッコに乗り込んだ。
スタート地点には多くの人が集まり、儀式の開始を、固唾を呑んで見守っている。
——あとは、もう、やるだけだ。
ヴァルデンベーラ婆が古木の杖を振り下ろした。
トロッコがゆっくりと動き出した。
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最初はゆっくりと進んでいたトロッコは、みるみるうちに加速し始めた。
「そら、食うぞ! なるべく音を立てろ!」
僕の前に位置取ったフィコの言葉が号令になった。僕らは一斉にうどんを啜り始めた。
ズルズルズル! ズゾゾゾーッ! ズルズル!
周囲の風景は飛ぶように過ぎ去ってゆく。思いのほか速い。
風がびょうびょうと吹きつける。これは一仕事だ。
ズルズルズルズルッ! ズゾゾゾゾーッ! ズルズルズルッ!
過ぎゆく街の景色に気を配りつつ、崩壊の進んでいそうな箇所にはとりわけ音を届かせるように意識しなければならない。
ズルズルズルズルッ! ズゾゾゾゾーッ! ズルズルズルッ!
急カーブ。放り出されぬよう、重心を逆方向へと傾ける。
向こう側に、靄状に溶けて半倒壊した建造物が見えた。
重点補修箇所だ。
ズゾゾーズルズルズルッ! ズゾゾーズルズルズルッ! ズルズルズルッ!
音が届くや否や、靄のように混然一体となっていたエリアが、不可思議な逆転再生映像のように収束・凝固し、元通りになってゆく。あるべきエレメントがあるべき流れへ。それは見事な有様だった。
——この調子だ。いける……!
ズゾゾーズルズルズルッ! ズゾゾーズルズルズルッ! ズルズルズルッ!
——うん、うまい!
これは経験則だが、焦って食べようとすると、意外なほど多くの量を食べることができない。重要なのは、味わい、楽しみながら、心の余裕をもって食べること。一見遠回りのようにも思えるが、これこそが秘訣なのだ。加えて、僕の場合、飲むように啜るのではなく、ある程度咀嚼することも、重要な工程となる。
闘志は燃えている。だが、あくまで心の奥底は冷静に——。
いまや僕たち6人は、一つのチームとなっていた。
常にうどんが口の中を通過している以上、言葉を交わすことはできない。
だが、意思は通じ合っているのを、肌で感じていた。
いかな早喰い・大喰いの名手とて、間断なくうどんを啜り続けられる訳ではない。息継ぎが必要だし、多少は咀嚼している時間も存在する。ペース配分の観点から休むことだって必要だろう。だが、僕らは6人。誰かの啜り音が止まっているときには、他の誰かがカバーできる。6人で一体の、ある種のグルーヴ感が生まれていた。
ズゾゾーズルズルズルッ! ズゾゾッ! ズゾゾーズルズルズルッ!
ズゾゾーズルズルズルッ! ズゾゾッ! ズゾゾーズルズルズルッ!
ズゾゾーズルズルズルッ! ズゾゾッ! ズゾゾーズルズルズルッ!
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街を4分の3周もすると、流石にうどんを啜るペースも落ちてくる。
だが、僕らは絶妙な連携と各々の沈着なペース配分によって、全体の作業バランスを一定水準以上に維持し続けていた。
靄は、高速で巻き戻された時間を辿るかのごとく、みるみるうちに凝固し、路面へ、階段へ、壁面へ……それぞれのあるべき位置へと戻ってゆく。
古びた集合住宅が、公共施設が、街灯が。
経年劣化や傷の具合すらもそのままに甦る。
石の街が、元の姿を取り戻している。
修復作業は順調だ。あと少し。
この大通りを突っ切って交差点のカーヴを右に曲がれば、元の広場への直線コースとなる緩やかな上り坂が姿を現す。そこを通り抜ければ無事、ゴールだ。
小気味好くリズミカルにズルズル音を立て、街を修復しながら驀進した僕らはしかし、最後のカーヴを曲がりきったところで、一瞬、怯んだ。
そこには、暗黒の大穴が口を開けていた。
灰色の靄が視界全体を覆いつくしている。向こう側が見えない。
無事な建造物はすでに一つとして無く、宙空に残されたその断片の数々は、今も端から溶け続けている。地面すらもが眼前から先で曖昧に消え、それらの靄は混じり合い、空中に静止しているかのごとき大穴より、底知れぬ奈落の暗黒へ、深々と流れ込んでいた。それは恰も不気味な、無音の滝のようだった。
呪術コーティングされた筈の真鍮色のレールすらもが、途中で溶けて消滅している。
このままの勢いで進めば、僕らも敢えなく奈落の底へと真っ逆様だ。
それ以前に、あの靄に突っ込めば、僕らの肉体も容易に消し飛ぶのではないかと思われた。
だが、勢いのついた呪術駆動トロッコは、レールの異常に反応したのか、穴の十数メートル手前でゆっくりと停止した。
僕らが怯んだ理由。それは、この異様な光景そのものよりも別にあった。
——恐怖。
そう。「恐怖そのもの」とでもいうべき巨大な何かが大気を満たし尽くし、暗黒の穴の底に向かって恐るべき密度となって収束しているのだ。
それは昨日の正午頃、公民館の2階で遭遇した「あの気配」を、何十倍にも濃くしたもののようであった。それが今、怪物のように、僕らの前に立ちはだかっている。
反克の術。自然の法則を反転させる邪術が最終的に齎すものが何であるかを、僕らは知らない。詳しく説明できるのは呪術師達だけだろう。だがその答えの一端が、今まさに目の前に顕現している。石の街に加えられた此度の攻撃には、計り知れない悪意が、おそらくは込められているのだ。
強すぎる「恐怖の気配」が、僕ら6人のうどんズルズルを止めた。
身体が動かない。気づいたときには、僕らの勇気は風前の灯火となっていた。正のサイクルが停止してゼロになり、やがて負のサイクルに転ずれば、僕らもこのまま虚無に呑まれて——。
…………。
……………………。
…………………………………………。
——いや、そうではない。僕らの肉体は依然、形を保っている。勇気は限りなくゼロ寸前にまで擦り減っていたが、精神も未だ、このように形を保っているではないか。冷静な思考ができている。まだだ。各々の勇気はごく僅かだが、6人分をかき集めれば、一人がうどんの一本を啜るくらいの動作ならば、或いは——。
うどんは、まだゴールまで走り切るだけの分を、残している。
ズルッ!
意思を総動員して手を動かし、辛うじて一本だけ、ざるから掬い上げて啜ったうどんが、確かな喉越しとともに食道を駆け抜けていった。
その瞬間、音の波紋に打撃を受けたかのように、靄の一部が少しだけ散った。
同時に「恐怖」がほんの少し、薄れるのを感じた。
そうだ。これこそ、僕らの取りうる戦い方。
6人いるのには、きっと意味がある。今こそ僕は確信していた。5つのエレメントの負の流転に勝てる秘策。それは僕ら自身が6つのエレメントの象徴となって紡ぐ正の流転なのだ。僕らの体内には、これまで散々発生させてきた正のエネルギーの波紋が、辛うじて残留していたに違いない。
ズルッ!
ズルズルッ!
ズルズルズルッ!
フィコが。ヒョウが。次第に仲間が後に続き、再びざるうどんを啜り始める。
うどんの滋味が、僕らに勇気をくれる。
勇気が、うどんを啜る音となり、恐怖を、虚無の靄を晴らしてゆく。
そうだ……! あるべきサイクル、正しきエレメントの循環を……今こそ取り戻せ!
うどんを啜れば啜るほど、恐怖と靄は薄れ、少しずつ、ほんの僅かずつ、街は元あった姿を取り戻そうとしていた。
ズルズルッ! ズルズルズルッ!
ズルズルッ! ズルズルズルッ!
ズルズルッ! ズルズルズルッ!
金属のレールが次第に復元してゆく。
ズルズルズルッ! ズゾゾーズルズルズルッ!
ズルズルズルッ! ズゾゾーズルズルズルッ!
ズルズルズルッ! ズゾゾーズルズルズルッ!
暗黒の奈落への門が、次第に狭まってゆく。
ズゾーズルズルズルッ! ズゾゾーズルズルズルッ!
ズゾーズルズルズルッ! ズゾゾーズルズルズルッ!
ズゾーズルズルズルッ! ズゾゾーズルズルズルッ!
石畳が、路面が、消火栓が、階段が、壁面が、屋根が、街灯が。
エレメントの悪しき流れが逆転再生され、元の街の姿へと戻ってゆく!
ズゾゾーズルズルズルッ! ズゾゾー! ズゾゾーズルズルズルッ!
ズゾゾーズルズルズルッ! ズゾゾー! ズゾゾーズルズルズルッ!
ズゾゾーズルズルズルッ! ズゾゾー! ズゾゾーズルズルズルッ!
靄が晴れる。
真鍮色のレールが陽光に輝きながら、広場まで力強く伸びてゆくのが見える!
呪術駆動のトロッコが、再び動き出す——!
▢▢▢▢▢
いつしか僕らのトロッコは、最後の数百メートルを走り切り、広場のゴールレーンへ、ゆっくりと滑り込んでいた。
皆が歓声を上げている。
街の人達が大勢で、僕らの死闘を見守っていたようだ。
僕ら6人は疲れ果て、トロッコの中でぐったりとしていた。もうしばらくは——向こう数年間くらいは、うどんを食べなくても良い気がする。
だが、それでも皆が喜んでいることだけは充分、伝わってきた。
皆が、僕たち6人の闘士に歓声を上げ、あるいは飛び跳ねながら、手を振ってくれている。
うどんの食べ過ぎで涙に滲んだ視界の端に、ユメの姿が映った。
彼女は片腕で瞳を拭う仕草をすると、こちらへ向けて、大きくその手を振った。
僕は笑って、手を振り返した。
『【石の街】攻防記』終わり