見出し画像

母(1)

 夜の帳が無限砂漠の陰影を青紫色へと変えた。

 広大無辺なる死と静寂の領域で、崩れる砂を踏みしめるザクザクという私の足音だけが響く。あれからどれほどの時間が経っただろう。幾百の砂丘を越えただろう。

 日が沈むと、そこは冷気が支配する世界となる。

 恐ろしいまでに冴え冴えとした月光から溶け出す水彩画のように、遥か遠方に壮麗なる青白い神殿が出現する。それは、永遠にして到達不能なる美しき幻影だ。エンタシスの列柱はどこからでもその曲線美を視認できることから、人類には凡そ似つかわしくない、途轍もないサイズで設計されたものであることが窺い知れる。伝説では、そこには有史以前よりたった一人暮らす「神官」がおり、今も唯一人、祈り続けているのだという。何のためにかは判らない。

 旅装束に身を包んだ私は、歩き続ける。
 思考はとうに枯れ果て、機械的に歩を進める。
 月光の神殿を右手に見据え、東を目指して。
 だが、世界の中央に横たわる無限砂漠が、その果てを見せる様子はない。

 日が昇る頃には、神殿の姿は幻のように薄れて消えてしまう。すると再び、辺りは灼熱と化す。

 月が昇る。冷気。神殿。

 日が昇る。灼熱。大気が揺らめく。

 灼熱。冷気。

 灼熱。


 昼と夜とを幾千幾万と繰り返し、やがて、暁光が砂丘を橙色に染め上げる頃、朝靄の向こう、黒々と横たわる都が見えてくる。それこそが、私が目指していた「黒檀の都」だ。

 まばらに自生する草木が目に入るようになってきた砂の地面。その途上に佇み、微動だにせぬ人影がある。

 近づくにつれ、その姿が徐々に明らかになる。頭上には何らかの動物のされこうべ。目の粗い麻の襤褸布をマントのように纏い、浅黒い肌には薄汚れた包帯が幾重にも巻かれている。
 ぎらつく眼光だけが、包帯の隙間から私を凝視していた。

「……来たか。」

 くぐもった濁声が一言だけ発せられた。ガチャリ。装束に隠されていた黒鉄の鎖鎌が音を立てて、砂の地面に落ちた。

「おれは鎖鎌の毒九郎どっくろう。先生の許にお前が辿り着くことは無い。ここで野垂れ死ぬ定めよ……ィイィィィ……」

 低い濁声が蚊の鳴くような異様な高音に変じた途端、毒九郎に闘気が満ちる!

「……ィイヤァァァァァァーーーーーッッッッッ!!!!!」

 それは裏声を振り絞るかのような恐ろしいシャウトであった。マントの中から鎖が一瞬で伸び、恐るべきリーチの高速斬撃が私の足首を薙ぐように迫りくる。

「フッ!!!」

 私は上方に垂直跳躍して斬撃を回避した。不思議なことに、身体が自然と動いた。私には攻撃の軌道が見えていた。これは一体。

「フン……少しは動けるようだな……。だがこれはどうかな……?」

 ドサリ。鎖鎌がもう一つ、マントの中から砂地に落ちる。毒九郎は伸縮自在の鎖で瞬時に手許に戻した第一の鎖鎌と、新たに取り出した第二の鎖鎌とを両の手に構える。

「ィイィィィイヤァァァァァァーーーーーッッッッッ!!!!!」

 再び、恐るべき裏声シャウト。二つの鎖鎌の遠心力によって独楽のように高速回転しながら、刃の竜巻と化した毒九郎が迫る! まともに受ければ何重にも切り裂かれて死ぬだろう。だが。

「フッホッハッ!」

 私は咄嗟に連続バック転で回避した。やはり身に沁みついたように身体が動いている。だが完全には避け切れず、最後の一撃を浴びてしまう——。

 ガキン!

 気づくと私は両腕でガード姿勢を取っていた。軟らかな砂地の上においてなお、その姿勢は岩の如く堅牢で、揺るがなかった。さらに不思議なことに、私の両腕には金属の籠手が生成されていた。斬撃を受けた箇所からは、ぶすぶすと毒煙が漂っている。肉体は無傷。

「なんだと……? だが逃げ回るだけでは追い詰められて死ぬのみぞ。」

 その時、私の身体は自動的に動いた。まるで遥か昔からそれを知っていたかのように。
 素手の拳法の構え。相手を牽制するように腕をくるくると回転させながら、腰を深く落として静止する。片掌を前に、もう片掌を後ろ上方に。

「フン、次で終わりにしてくれる……。ィイィィィィイヤァァァァァァーーーーーッッッッッ!!!!!」

 空を切り裂きながら再び襲い来る二重回転竜巻加速毒斬撃! だが……見える! それより疾く、相手の懐に潜り込むのだ! 私は地面すれすれまで重心を落として二段斬撃を掻い潜ると、砂地に軽く置いた手を軸に回転しながら地を這う足刀を繰り出した。

「フッハッ!!」

 二段回転足払いが敵の脚を抄い、身体を宙に浮かせる! 今が勝機!

「ハッ、ホッ、フッ!!!」

 左掌打で相手の右腕を。右掌打で左腕を弾く!
 そして——バランスが崩れて一瞬がら空きとなった胴体に、全体重を乗せた右拳を叩き込む!

「フンッ!!!」
「ガハァッ……!!」

 毒九郎が吐血しながらたたらを踏んだ。今だ!

「ハイィィィィヤァァァァァーーーッ!!!!!」

 渾身のシャウトともに私はサマーソルトキックを繰り出した。

 ゴギン。

 鈍い破砕音。敵の顎骨が砕ける音。回転着地。残心。

 吹き飛んで倒れた毒九郎の頭蓋から、赤黒い血溜りが砂地にゆっくりと広がり、滲み込んでゆく。もはや敵が動かないのを確認すると、私は踵を返し、再び都の方角へと歩み始めた。

 一陣の風が砂を巻き上げて吹き荒び、暁光が黒檀の都の中心に聳える九重の塔の威容を照らし出した。

(つづく)


Q. これはなんですか?
A. こちらの続きです


いいなと思ったら応援しよう!

ウナーゴン
🍎🍏いただいたサポートはウナーゴンの進化素材となります🍏🍎 🌝🌚感想はこちらでも受け付けています🌚🌝 https://marshmallow-qa.com/unargon2030m