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調和を保つ

ちょう わ [調和]⦅名・自サ⦆
よく〈にあう/つりあう〉こと。「色の━・━が とれる・━を保つ」

三省堂『三省堂国語辞典第八版』より引用

空っぽの中身に皮を貼り付けてそつなく今を生きていました

5月10日晴れ、休日。

6時過ぎに起床しパートナーと娘に挨拶をする。共働き家庭の我が家で私は大半の料理を任されている。笑顔のまま「何羽分なんだろう」と頭の中で考えながらパック詰めされた鶏肉をフライパンに落とす。水菜・オリーブオイルに適当なスパイス、レモンと火が通った何羽分かのそれを混ぜ箱に詰め彼女達を学校と仕事に送り出す。

三度目の玄関が閉じる音が鳴り止み自然に表情筋が下がるのを自覚する。階段を上りながら「何羽分なんだろうなんて考えながら料理をしています」なんて誰かに話す機会は一生ないだろうし、そんな風に考える人間はどうかしていると頭の中で考えながら筋トレをする。毎朝の変わらない、礼拝のような日課。

1月から始めた「許可を頂いて短歌の感想を伝える」のnote掲載が今日完了した。短歌に触れて間も無い何を考えているかもよく分からない人間に自作の感想を述べさせてくれる懐広い方は居ないだろうと思っていた。けれど予想以上の方が「自作に触れる」ことを許してくれた。現実においてこれほど多数の人が作った作品、心の機微に触れることは過去なかったので驚いたが感謝の念しかない。短歌が上達したら何かの形でお返しが出来れば良いなと思う。

不思議なこともあるもので、他者の短歌に触れはじめてから自分の心情を説明しようとすることが多くなった。この日記か何か分からない文章もそうなのだろう。作者や作品に触れて得た感情を自分の中で消化しようと試みている、それでも消化しきれない感情を自分の感情に変換をして誰かに伝えている感じがする。

今まで他者に無関心であった、無関心であろうとしていた反動なのだろうか。それとも今まで見て見ぬふりをしてきた他者や自分の感情と調和を試みているのだろうか。

昨日次の企画を相談している時にある方に「もっと地を出していけ」と言われた。自分の「地」がよく分かっていないのでそれが出来れば苦労はしないのだけれど励まされている気がして「では日記でも書いてみます」と今に至る。礼拝が巡礼になってしまった。


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