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物語を書くには脳みそを解放してやらねば。雁字搦めの日常の中で脳みそを自由にするには、なかなかの苦労が必要だ。『デタラメだもの』

物語を書くときの脳みそというのは、かなり解放を求めてくるわけで、日常雑多なことをやりながら、なかなかどうして脳みそが切り替わってくれなかったりもする。

何を思ったのか、140文字の文字数ピッタリで超短編小説を書く。それも毎日新作を公開するなんてことを打ち立てたもんだから、恐ろしいことに、自分に課した締切は毎日やってくる。雨の日も風の日も、もちろん風邪の日も酔っ払っている日も、容赦なく締切は迫ってくる。なんとか物語が書けるように脳みそを解放してやらんといかん。

その昔は、旅行に出かけたりすると、「嗚呼、日常を忘れられるわぁ」などと言ってのけ、解放を味わえていたりもした。美味しいものを食べたりすると、「嗚呼、ほっぺたが落ちるわぁ」などと、大幅に気分を切り替えることもできた。

ところがだ、ある年齢を過ぎたあたりから、日常を忘れるための旅行とは言え、旅程が終われば日常はやってくる。美食を堪能しようにも、完食の時は必ずやってくる。常にどこかで現実に見張られながら、脳みそやら魂やらを解放した気になっているんじゃないだろうかと勘ぐり、これは所詮、演技なのでは? という疑いまでもが顔をもたげ、そんな自分に辟易しはじめた。

いやいや。よく言うじゃあないの。不自由さの中にこそ自由はある。まさにおっしゃる通りで、自由にひた浸かっていると、その中に点在する不自由さにばかり目が行ってしまい、非常にちっぽけな人間に成り下がってしまいそうだ。
反面、不自由さの中に身を置いていると、ちょっとした自由さえもありがたく感じる心のアンテナの感度が高まり、なんだか衛星放送も受信できそうだ。要するに、日常の中において、いかに脳みそやら魂やらを解放できるかが勝負というわけだな。合点。

それにしても、殊更に難しいのが、数字やらを扱うような、所謂ビジネスというやつと格闘している最中に、なんとしてでも物語を書かねばならん締切が訪れるとき。

聞くところによるとビジネスというやつは、ロジカルにシンキングするほうが良いらしい。要するに、物事を論理的に捉えなさいというわけだ。五十円で仕入れたものを百円で売って五十円の利益を得ている最中に、地殻変動が起きたり宇宙人が攻めてきたりしてはいけないという制約があるらしい。反面、五十円の仕入れを四十円で仕入れる努力などは称賛されるっぽい。

そんな思考に侵食されている中、「さぁ自由に物語を綴りなさいな」と言われても、「承知いたしました。永遠のライバルと思い争っていた敵が、実は生き別れの兄弟で、やがてはそれに気づき二人は結託。その後、二人を引き裂こうとしていた黒幕は、なんと二人の父親だったことが判明。幾多の困難を乗り越えた末に父親を追い詰めた兄弟は、鋭利なナイフを父親の喉元に突きつけるも、そこで語られたのは二人を狂わせるほどの真実だった――」なんて物語を、伸び伸びと書けるわけがない。

しかし、締切は容赦なく襲ってくる。なんとか脳みそが求める解放というやつを提供してやらなくてはならん。しかし、旅行に出かけようが旅程は終わる。美食を堪能しようが完食の時は訪れる。締切が遠ざかるわけでもないし、なんだか締切そのものを忘れようとしているだけの、ただの現実逃避のような気がしてならん。

なんとも呆気ないと思うかもしれないが、そんな時は、ひと息つくことにしている。とりあえず、その場から離れるという戦法だ。

例えば、事務所を離れ街に出てみる。ただし、所詮そこは見慣れた街だ。いわゆる日常真っ只中。そこでどうするかと言うと、普段とは違う目線を意識してみる。
人間、意識せず生きていると、かなり目線の高さなどを固定してしまっているように思う。なので、見慣れたビルがあったとしても、そのビルの、見慣れた部分だけを視界に捉えてしまっているに違いない。簡単な方法として、見慣れたビルの中でも見慣れない部分、例えば屋上付近だったり、裏側だったりに着目する。それだけで、初めて見る景色というのは簡単に手に入る。非日常は意外と身近にあるというわけだ。よし。ちょっとばかり脳みそが解放されたでやんす。

他には、目に映るものすべてに疑問を抱いてみる方法。特に、当たり前として捉え、普段ならやり過ごしてしまっている事象に対し、純粋無垢に疑問を抱いてみる。
太陽は昼の象徴。月は夜の象徴。のはずなのになぜ、真っ昼間に薄っすらと、上空に月が浮かんでいるときがあるのだ。彼らは追いかけっこをしてるんじゃなかったのか。科学的な説明を受ければ、一発で解決するんだろうが、脳みその解放には、素朴に疑問視することが重要だ。

プラモデルを作るには、かなりの時間と労力を要する。それが小型のものであってもだ。それにも関わらず、人間はなぜあんなにも長距離に渡り、高速道路を空中に這わすことができたのだ、とか。雨が降っているエリアと降っていないエリアの境目の様子はどうなっているのだ、とか。大阪のおばちゃんは、なぜに派手な衣服を好むのか、とか。

さらには、目に留まった人の人生を勝手に想像してみる。表情やら衣服の様子、ちょっとした仕草などから、その人の性格やら職業やらを想像し、家族構成とか職場での立ち振舞などを思い浮かべてみる。通っている飲み屋とか口癖とかまで全部。こうやって文字に起こすと、やっていることが奇妙奇天烈極まりないが、物書きという立場上、ご了承願いたい。

さらに妄想は飛躍する。ある単語とある単語を法律的にチェンジしなくてはならないという決まりができたことを想像する。例えば、「今日から葡萄と糞便という単語を入れ替えてください。従来の使い方をした場合、罰則が下ります。たわわに実る糞便。我慢できず便所に駆け込み葡萄を出す。このように単語をチェンジしますので、国民の皆様、何卒よろしくお願いします」などと政府が発表した場合、人はどのくらいの年月をかけて、葡萄は葡萄の、糞便は糞便という言葉が持つイメージを払拭できるのだろうか、とか考える。

すると、気づけば脳みそは完全に解放されており、物語を綴ることができるようになる。脳みそ解放宣言から5分程度で物語が仕上がるときもあれば1時間近くかかることもある。仕上がった暁には、極度の快感が訪れ、その快感は脳みそを刺激し、やがては中毒症状と化す。字面だけ見るとおどろおどろしいが、要するに、もっと物語を書きたいなぁ、という欲求に駆られるということだ。

物語が仕上がればこっちのもの。そそくさと事務所へと舞い戻り、執筆・推敲を経て、世に公開する。よし、今日も無事、新たな物語を世に届けることができたぞ。と、悦に浸っていると、街に出て奇妙奇天烈なことをやってのけている間に、所謂ビジネスの様子がおかしくなってしまっていた模様。どうやら百円で仕入れたものを五十円で売ってしまっていたようだ。これは世間一般に知られる、赤字というやつだ。

冷や汗をかいた刹那、ふと見上げると、そこには真っ赤な形相で立ち、非常に鋭利なナイフをこちらの喉元に突きつける人間がいる。どうやら、百円で仕入れたものを五十円で売ってしまった愚行に対して憤怒している様子だ。

そこでこう言ってのけた。「ねぇ、実は僕はあなたの生き別れの息子。幾多の困難を乗り越えて、ここまで辿り着いたのですよ。さぁ、抱きしめてごらんなさい」と。その刹那、罵声というナイフが突き刺さり、翌日には役職が三階級ほど降格していた。

デタラメだもの。


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