ブルースター

Love yourself

友達から創価学会の勧誘が来た。

僕は深く、無宗教だ。

何も信じていないに等しい。何かを信じたいが信じることを恐れている。自分の才能や努力にすら信用できない。他人なんて本当に信用できないし身内だって信用できない。でもよく聞く言葉でGive&Takeなんてものがある。自分が先に信じることで信頼関係が生まれるなんてことはわかってる。それでも何も信用できない。

例えば家の近くの公園で野良猫に餌をやったとする。明日も同じ場所で餌をやったとする。野良猫は餌をくれる信頼から僕に懐くだろう。それは餌をくれる生き物がたまたま僕だったから僕に懐いただけのことだ。野良猫は僕に懐いたんじゃない。餌をくれる僕に懐いたのだ。

神に祈りを捧げると救われると本気で信じている人は気が狂ってると多くの人が思うと思うんだけど、でも占いを信じたり血液型の話であーだこーだ言ったり、人の立場を見てその人の言うことだからと信じたりする人も僕は神に祈りを捧げるかの如く狂ってると思う。

頭の良い人が世界中にたくさんいるけどそれでもまだまだ分からないことが多すぎる。中には「科学は信じてもいいんじゃないの」って思う人もいるかもしれない。でもその科学的根拠は本当に変わらないのだろうか。毎日新しい人がこの世に誕生する。10年も経過すれば世の中の常識は激変し、もう10年経てば明日生まれてきた赤ちゃんが世界を変えてるかもしれない。

新しいことにデータは存在しない。

成功するまで努力することが大事なのかもしれないけどそこには無駄を覚悟するというリスクがある。先のことなんてわからない。才能がある人は一般人の努力時間の1万分の1くらいのスピード上達してしまうような気がする。若い世代が活躍してかつて活躍していた人達を抜き去ってしまうのは才能や運の差がほとんどを占めていると思うんだ。

たくさん勉強しても東大に受からない人がいれば全く勉強しなくてもマサチューセッツ工科大学に受かる人だっている。自分に何か才能があればと思う。そーゆう意味ではルックスが良い人が人生うまくいきやすくなるのは納得いく。ルックスなんて生まれつきそのものだ。

特に女の子は顔が可愛ければそれだけでちやほやされてお金持ちのおっさんとご飯に行けば大金が手に入る。イケメンが物を売れば売れるし顔をいいだけで集客ができる。これは立派な才能だと思う。

自分はどうか。本当に典型的な普通の代表と言える。見た目も発想も性格も考え方も感性も。つまらない人間だ。だから何かを信じたいなんて思うし何も信じられないなんてことも思う。僕は日本の義務教育を経て大学は行ったけどすぐ中退して働かなくても稼げるようになりたいと勉強したけど才能が微塵もなかった。勉強すればするほど自分が惨めになっていく。

よく失敗する人の行動パターンとかを見ていたが面白いぐらいにあてはまる。ビジネスや投資が向いてないことはすぐにわかった。かと言って音楽や絵などの才能はもっと無い。スポーツが少しできるくらいだろうか。自分なんかに信用してたら本当に無駄な一生を過ごしてしまう。

だから他人の才能を信用できる人間になれたらとか思う。ジャニーさんが先日亡くなったけど彼の人を見いだす才能は何なのか。どんな感覚で人を見ているのか。秋元康なんかもそうだ。さらに人の才能を見抜いても僕に人望が無ければ他人の才能は開花されないだろう。この人のところで頑張りたいと思ってもらえる自信なんてあろうはずがない。

いっそ神を信じて毎日酒でも飲んで拝んでた方がましくらいにも思えてくる。そんな散々自己否定しまくってた僕だけど唯一信じれることがある。

それは人は死ぬということ。

これだけは信じれる。まだ20代中盤で人生を諦められないから死のうと思うことはたくさんあるけどでも可能性に期待はある。その灯が消えれば僕もなんの恐怖もなく死ねるんだって思う。死ぬことはたいていは恐怖と捉えられるがむしろ僕にとっては死ねることが救いでもある。

この意味も無い駄文をタイピングしてる時間は自分にとっては薬なのかもしれない。ひたすらにただ駄文を重ねて薄っぺらい表現で書き連ねていくのは一種の快感がある。タバコも酒もしないつまらない僕は休日に一人部屋でただタイピングをしているのだ。気持ち悪い。

信じることは何もない。

自分に才能があれば人生は楽しいものになっていたのだろうか。才能が無くても楽しんでもいいだろう。もしかしたら堕落から天才はうまれるのかもしれない。

そう思えば堕落する自分を肯定できる気がして自分を守って名前も顔も出さずに安全地帯で楽しいことだけできればいいんだよな。

楽しいことってなんだろな。