『忘れえぬ慕情』(1956年)と松竹スペクタクル特撮の世界
「物語は長崎の造船所に技師として来日しているフランス人マルサック、彼のあとを追って日本にきた典型的なパリ女フランソワーズ、それに両親の死後も女手ひとつで呉服屋を営む日本娘乃里子の三者がからみあう天然色のラブ・ストーリー。シアンピ監督は日本と西欧の対比を心理的な面で追及、あわせて日本滞在五ヵ月間に感じたものを一切とりいれて、ネオリアリズムの手法で一九五六年の日本を表現してみたいと意気ごんでいる」(毎日新聞夕刊1956年4月10日〈火〉)。
1956年の日仏合作メロドラマ『忘れえぬ慕情』。イブ・シャンピ監督の狙いは当時の日本を記録映画的に描くことにあった。クライマックスでは風速六十メートルの巨大台風が長崎を襲う。特撮パートの撮影は矢島信男が担当。総製作費は4億8千万円で、これは普通作品二十本分の予算に当たるという。
「松竹の特撮には、川上景司さんや、美術の奥野文四郎さんのような、東宝の『ハワイ・マレー沖海戦』で円谷さんを支えた優秀な人がいた」(矢島信男/『東映特撮物語 矢島信男伝』)。
松竹の特撮部門は東宝から引き抜かれた人材が中心となっていた。日本映画技術賞を受賞するなど、高い評価を得た『忘れえぬ慕情』のミニチュアワーク。そこには戦前以来の東宝特撮の遺伝子が受け継がれている。
「より軽い瓦を作るために、私たちは引き型でまず捨て型を引き、その上に分離剤をつけてもう一度瓦棒を引き、これを切って並べて、やっと瓦を飛ばすことができました。このような手数のかかる難しい瓦は、それ以後、使ったことがありません」(成田亨/『特撮美術』)。
『忘れえぬ慕情』に参加した成田亨の談。強風で飛ぶ瓦を苦労して作り上げた。
「この作品のクライマックスは、大台風のシーンである。地震も起こり、洪水もある。そのために、特撮用のステージが、急遽建設された」(升本喜年/『松竹映画の栄光と崩壊』)。
『忘れえぬ慕情』での設備投資は、松竹にスペクタクル特撮の伸展を促すこととなった。松竹グランドスコープ第1弾『抱かれた花嫁』(1957年)は大型画面を活かした浅草炎上シーンが見所。特殊技術は川上景司が担当。
『喜びも悲しみも幾歳月』(1957年)。嵐の海の場面に特撮が使用された。川上景司は1963年に円谷特技プロに入社、『ウルトラQ』(1966年)の特技監督を務める。
『紀の国屋文左衛門・荒海に挑む男一匹』(1959年)。松竹京都の作品だが、大暴風雨の場面は大船に新築された特撮用第九ステージで撮影されている。特撮費用は850万円(当時)。監督は『日蓮と蒙古大襲来』(1958年)で大嵐のスペクタクルを演出した渡辺邦男。
『火の壁』(1959年)。阿蘇の大噴火をクライマックスとするメロドラマ。溶岩は赤く染めたゼラチン状のもので表現。火山爆発の特撮だけに1千万円(当時)の費用を計上した。
「川上さんの仕事は地味なものが多かったですね。というのも、松竹の社風として、文芸作品や人間の心情を描くものが多いでしょう。派手なアクションとかSFものはないですから、情景カットなどが多いんです」(矢島信男/『日本特撮・幻想映画全集』)。
「文芸作品や人間の心情を描くもの」が多かった松竹。特撮スペクタクルは会社の社風には合わなかったということなのだろう、『忘れえぬ慕情』の系譜は1960年代に途絶える。しかし、特殊技術そのものはその後も喜劇映画などに活用されていく。