『大巨獣ガッパ』(1967年)
1978年。TBSの『日曜★特バン 輝け!テレビ怪獣SF映画25年』で『大巨獣ガッパ』(1967年)のフッテージが紹介された。ガッパの熱海襲撃場面に強烈な衝撃を受けたことを今でも憶えている。その翌年、地元のテレビ局が第3次怪獣ブームに合わせて怪獣映画を特集。その中の1本として『ガッパ』がオンエアされた。全篇に漂う暗黒映画のようなムード。他社の怪獣映画とは違う何かを感じさせた。
「昭和三五年(一九六〇年)ごろ、小林旭の〈渡り鳥〉または〈流れ者〉のあらわれるところに、必ず、レジャーランド建設にからむ土地問題が起った」(小林信彦/『小さな巨像』) 。
日活初の怪獣映画『大巨獣ガッパ』は「レジャーランド建設にからむ土地問題」という、日活アクションのプロットをそのまま転用したものとなった。脚本は渡り鳥シリーズの山崎巌が担当(中西隆三と共同)。劇中の小道具には「レジャー・ブームもここまできた」の文字が見える。
自衛隊の装備に注目すると、使用される兵器が実在のものに限られている点が目を引く。日活映画の特徴として、いわゆるSF的な作品がほとんどないことが挙げられる。日本最古の映画会社は、空想を排した世界をここでも作り上げていく。
奪われた子どもを取り戻すため、親が日本にやってくるストーリーはイギリスの怪獣映画『怪獣ゴルゴ』(1961年)とよく似ている。もっとも、日活にはこの手の話が少なくない。小林信彦によると、『夜霧のブルース』(1963年)はシナリオの構成が『切腹』(1962年)とまるで同じだという(『地獄の映画館』参照)。
「男には誰にだって野心がある。自分が選んだ道で成功したい。僕だって、殿岡だって」(『大巨獣ガッパ』)。
アイデンティティの確立は日活アクションの多くに共通するテーマ。その系譜は『大巨獣ガッパ』にも引き継がれている。渡辺武信は言う。
「日活アクションの魅力の核心は「我々には誰にも譲りわたせない自己がある」ということを、さまざまの通俗的パターンの中に一貫させて唄い続けたことにあった」(『日活アクションの華麗な世界』)。
『大巨獣ガッパ』の結末では、「誰にも譲りわたせない自己」が「原始の野性」の前に屈服。企画の児井英生は「純日本的な河童」に着目した経緯をこう語る。
「大映が空飛ぶカメのお化け、ガメラで来るなら、こちらは原子怪獣化した河童で行こうということで、「大巨獣ガッパ」はスタートした。ゴリラやカメより河童の方が、どことなく人間くさいではないか」(『伝・日本映画の黄金時代』)。
ガメラに対抗して作られたガッパは、歓喜の涙を流すなど極めて人間くさいキャラクターとなった。土着的風土への回帰は同時期の日活アクションにも見られる。ちなみに、本作は日本映画輸出振興協会からの融資を受けて作られた。シナリオは政府の検閲を受けており、保守的な内容はそのこととも無関係ではないかもしれない。
『大巨獣ガッパ』の封切りは日活の体制改革が行われた1967年のこと。その前年には「日活特殊技術部」が「日活特殊撮影部」へと名称変更している。日活における「特殊技術」とは、通常「合成」のことを指す。「特殊撮影」という言葉には、模型を使った撮影という意味があるようだ。
当時の一般的な映画一本の製作費は3千万円。『大巨獣ガッパ』にはその5倍以上となる1億6千万円が投じられた。これが成功していれば日活はその後、特撮路線に活路を見出していたかもしれない。
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