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『遊星よりの物体X』(1951年)
「映画史に残る宇宙からの侵略者第一号はなんだろうか? 海外の二、三人の物識りに手紙で問合せたが、本格的な侵略者は、やはり一九五〇年までは現われていないとの返事だった。RKOラジオ映画が、ハワード・ホークスに作らせた「影が行く」が、栄光ある侵略ベム第一号だというのだ」(大伴昌司/『OH! SF映画』)。
戦争回顧映画ブームがおさまった一九五〇年、ハワード・ホークスは「侵略ベム第一号」が登場する『遊星よりの物体X』(1951年)の撮影を開始。当時、空想科学映画といえば巨大なセットを使ったフリッツ・ラング式の大スペクタクルか、怪獣がニューヨークに殴りこむ「ぶち壊し映画」だけと思われていた。記録映画手法で作られた『物体X』は、今までにない形式のリアル(実感的)なSF映画となる。軍と新聞記者が対立する件りは、のちの原子怪獣映画に引き継がれていく。
「これはまさしく大人の見るSF映画である。「2001年──」は作れなくても、このような作り方をすれば、日本でも世界に誇るSF映画を作ることができるのではないか。SFといえばすぐ大掛りな特撮だけに頼る考え方は間違っている」(大伴昌司/『OH! SF映画』)。
日本のSF映画は「すぐ大掛りな特撮だけに頼る」。大伴が『物体X』に注いだ情熱は、そうした考え方を改めさせるのが目的だった。
「筆者は特撮映画の一分野として怪獣映画を高く買っており、『アルゴ探検隊の大冒険』や『原子人間』のような完成された怪物映画こそは映画を救う有力な武器と信じていたので、怪獣ものに強い情熱をそそいだわけだ」(大伴昌司/『OH! SF映画』)。
完成された怪物映画は「映画を救う有力な武器」となる。大伴の文章が書かれた1960年代末には、映画は斜陽産業となっていた。「地味なドキュメンタリー・タッチ」の評価は、当時の状況を踏まえて考える必要がある。