一匹オオカミ 伊上勝
平山亨によると、東映の映画監督はたいてい野田高梧のテキストを読んで勉強していたという。
「既往の理論と技術のなかからおのれの血となり肉となるものを伝承することは、やがておのれ自身の独創を燦然と輝かし出すための準備行動であり、徒らに禍いされることのみを恐れて、承けつぐべきものをすら承けつがないのは愚の骨頂であろう」(野田高梧/『シナリオ構造論』・1952年)。
野田にとって、「基礎的な知識」の伝承とは芸術家が「おのれ自身の独創」を輝かし出すための準備行動だった。ところが、伊上勝の場合は「いきなり新奇な独創へ飛びこもうとする」。
「親父のシナリオって、紙芝居的なんですよね。おいしいとこだけ羅列するというか、シーンのつながりに理屈がないわけです。あの人は昔っから紙芝居が好きで、中学の時、自分で描いた紙芝居を、先生に頼まれて授業中に読んでたような人なんです」(井上敏樹/『KODANSHA Official File Magazine 仮面ライダー Vol.5』)。
冒頭から事件を持ってくる伊上の「紙芝居的」な感性。平山はそれを「抜群に新しかった」と評価する。
「当時の東映の監督たちは、みんな野田高梧さんの脚本で育ってるようなところがあるから、たいてい伊上さんの脚本をボロクソに言うんだ。『手抜きだ』とか『いい加減だ』とか。それは裏を返せば、伊上脚本が如何に今までにない、異色な脚本だったかってことなんだよね」(平山亨/『KODANSHA Official File Magazine 仮面ライダー Vol.5』)。
今までにない、異色な脚本だった伊上脚本。野田の言う「陳腐な有り合せの映画的感覚」を、伊上はむしろ積極的に用いていく。
「私が地上へ来たのは、戦いの無い平和な国になるよう力を尽くすためだ」(『遊星王子』第2部「恐怖奇巌城篇」第3回)。
伊上勝のデビュー作は1958年の『遊星王子』。世界中の理想郷を作るため、遊星から来た男は最終回で日本を離れる。「既往の理論と技術」をすべて投げ出すように。『怪竜大決戦』(1966年)の尾形雷丸も、物語が終わる頃には尾形家再興を断念している。
「再興か。すべては終わってみると虚しいものだ。小四郎太、お咲さん。元尾形家の領土にもう城は無い。あるのは、これからお前たち領民が作る美しい野や畑だ」(『怪竜大決戦』)。
伝承を拒む登場人物。伊上勝は「一匹オオカミ」の脚本家という点でも新しかった。
「だれに師事したわけでもなく、だれを目ざすでもなく、「見よう見まね」の一匹オオカミだという」(サンケイ新聞夕刊1971年4月8日付)。
師匠を持たない伊上には、承けつぐべきものは何もない。
「ボクは作家というより、おもしろいものをみせる、たのしませるためのサービス業だと思っています」(伊上勝)。