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『きりひと讃歌』讃歌

 『きりひと讃歌』を初めて読んだのは、1977年の6月に刊行が始まった手塚治虫全集の配本でだった。この全集は月に4冊ずつ届いたが(その頃、町の行きつけの本屋は配達をしてくれていたし、僕は小学生の時からその本屋ではツケが利いた。本に関しては、それが漫画であってもアニメ雑誌であっても鷹揚な両親だった)、最初の月だけは発刊記念ということだったのだろう、一気に8冊が出た。そしてその中に『きりひと』の第一巻が入っていた。自分は中学一年生だったはずだ。

 最初に読んだ手塚治虫が何かはもう覚えていないが、小学生の頃に朝日ソノラマから出ていた『鉄腕アトム』の単行本を買い集めて、それは繰り返し読んでいたし、1973年から「週刊少年チャンピオン」に連載されていた『ブラック・ジャック』には随分痺れていた。僕は小さい頃から右耳が慢性中耳炎で、子供の頃から何回か手術をしていて、小学四年生の時などは、夏休みを丸々、博多の病院で過ごしていたこともある。生まれ育ったのは山口県なのだが、博多にいい医者がいるというので、そこに入ったのだ(「福岡」という呼び方には未だに慣れない)。博多には母の妹の一家が住んでいた、ということも後押しになった。そもそも自分が漫画をたくさん読むようになったのも、その入院の時で、母が見舞いに来るたびに、退屈だろうと漫画の単行本を買って置いて行くのだった。絵心のあった母は、まず絵が良くないとダメで、彼女のお気に入りは望月三起也だった。『ワイルド7』も『秘密探偵JA』も、その時出ていた巻はその夏に全部読んだ。そんなわけで、医者や病院との付き合いが深かった僕には、『ブラック・ジャック』で描かれる世界に親近感があったし、なにしろ毎回面白くて、胸を揺さぶられるのは、みなさんご存知の通りだ。

 まあしかし、小~中学生なのだから、手塚治虫が好きといったって、その程度のものである。それが「全集」という形でこれまで知らなかった漫画がいっぱい読める、というのはまったくありがたい話だった。先に第一回配本は8冊あったと書いたが、その内訳は『ジャングル大帝』『リボンの騎士』『三つ目がとおる』『きりひと讃歌』『ぼくの孫悟空』、この5作品の第1巻と、一冊で完結する『新選組』『罪と罰』『地球の悪魔』の3作品である。『ジャングル大帝』と『リボンの騎士』はアニメにもなった古典的名作であるからもちろん知っていたし、『三つ目がとおる』は『ブラック・ジャック』と併行してリアルタイムで「週刊少年マガジン」の雑誌連載を目にしていた。『ぼくの孫悟空』『新選組』『罪と罰』『地球の悪魔』は全く初めてで、つまらないわけではないし、片っ端から読んだが(なんだって吸収したいし、また出来る年齢だ)、子供心に絵もお話も「古いものだな」という印象は拭えなかった。で、残るは『きりひと讃歌』である。これは1970年から71年にかけて連載されたものだから、77年当時にしてもまずまず最近のものであり、絵柄は古くない。しかも青年誌「ビッグコミック」(当時は月2回刊)に連載されていたものだから、ストーリーはかなり大人向けの作りであり、時折、性的な描写もある。いろんな意味で大人の世界の入り口にいた自分には実に魅力的な作品に映った。そして、これも『ブラック・ジャック』と同様に、病気と医療の世界を描いた作品であった。

 主人公は小山内桐人という、大学病院で将来を嘱望された医師である。その彼の所属する医局の医長であり、医学界の権威である竜ヶ浦教授は、目下のところ、モンモウ病という、人がまるで犬のような容貌になって苦しむ、架空の病気になっている患者の研究に勤しんでおり、その病気の発症例がある地方の村に調査のために桐人を派遣する。だが、その滞在中に桐人自身がモンモウ病にかかってしまい、生肉を食し、見た目は犬になってしまう。大学に連絡するも、自分の籍が消されており、もはや頼るすべもない。やがて桐人は謎の台湾の富豪に捕獲され、人々の見世物として扱われ苦難の末に逃げ出すも、今度は中東にまで旅をすることになる……。その彼を探す、まだ人間だった頃のフィアンセや、かつての同僚だった占部という男も絡み、また桐人が行く先々で出会う女性たちとのドラマが描かれる。一方、大学病院内では、実は意図的に桐人を窮地に陥れていた竜ヶ浦教授が日本医師会の会長選挙に打って出るという、医者の世界の政治的な謀略も描かれる。世界を股に掛けたスケールの大きなドラマであり、さまざまな濃いキャラクターが動き回る群像劇でもある。

 今年の4月に、この作品を、雑誌連載時に掲載されたままの状態で単行本化した『きりひと讃歌 オリジナル版』というものが出た。「雑誌連載時に掲載されたままの状態」とわざわざ書く意味は、手塚治虫という人は、連載していた作品が単行本としてまとまる時に、コマの順番を変えたり、台詞を変えたり、絵を描き替えたりということをやってしまうからだ。もちろん、手塚さんにしてみれば、月2回の〆切に追われて描いていたものを並べて俯瞰してみると、話が見えにくいとか、流れが良くないとか、絵が今イチとか、そんな反省が目に付いて、より良い形で世に問いたい、という気持ちでやり直しているわけだ。映画の世界で、ジョージ・ルーカスやフランシス・フォード・コッポラが過去作に何度も手を入れて<ディレクターズ・カット>的な何かを作って再公開をするようなものである。だが『スター・ウォーズ』のファンが、一番最初に映画館で観た、CGなんか使われてないあのバージョンが観たい!と切望するように(今出ているビデオソフトは全部新しいバージョンになっているので、現在、オリジナルの姿の『スター・ウォーズ』を観る方法はない)、手塚漫画も一番最初に雑誌に掲載された時のままの状態で読みたい、という人がいて、近年、いくつかの作品がそのような形で再発売されている次第だ。雑誌掲載時にはタイトルを表示するための扉のページがあるわけだが、通常の単行本化の際にはそうしたページは邪魔だからカットされてしまう。また雑誌の時にはカラーだったり2色刷りだったりしたページも、単行本では白黒にされてしまう。

2色です。

 そして連載当時では問題にされなかった視覚的な、あるいは言葉的な(主に差別にかかわる)表現が、単行本化の際にはその時代の規範に応じて改変されてしまうこともある(また映画の話になって恐縮だが、最近、海外のストリーミング・サイトで、ウィリアム・フリードキン監督の1971年作『フレンチ・コネクション』の中で、主人公を演じたジーン・ハックマンの汚い言葉がカットされたという事件があり、大きな波紋を呼んだ)。当時の世相を鑑みて、その時の表現をそのまま残すことが本当に善かどうかは、そう簡単に結論の出る議論ではないだろうが(実際、この『オリジナル版』にも巻頭に長いエクスキューズが書いてある)、とりあえず、ある作品の原初の姿をそのまま見たい、読みたい、というファンの気持ちの在り様は理解出来る。

 で、その『オリジナル版』を読んだ。昔、前述の全集で読んで、断片は覚えていたけれど、何しろ50年近く前以来だから、けっこう忘れていることも多かったし、それと『オリジナル版』のどこがどう違うとか、そういうことも言えない。ただ、とにかく、やっぱり、面白かった。グイグイとページをめくらされる、その力が桁外れに凄いし、よくもこんな大きな、しかし見事にまとまった話を、この密度の絵で、2年近くもかけて破綻なく描き続けられたものだと、この漫画家の大きさに呆れる他なかった。ストーリーだけなら、絵だけなら、良質なものを量産できる作家はいるかもしれないが、この人はその両方をいっぺんにやってしまうのだ。今さら言うことではないし、僕自身も昔からそう思っていたけれど、世界中探しても、こんな作家は他にいない。改めてひれ伏すばかりだ。

 またまた映画に例えてしまうが、旅が続く話だからだろうか、僕にはデヴィッド・リーンの『アラビアのロレンス』(1962)やフォルカー・シュレンドルフの『ブリキの太鼓』(1979)のような大河ドラマと同様の重さで迫って来た。『ロレンス』を想起する理由のひとつには、当時のオイル・ショックを話に盛り込む意図もあってか『きりひと』の後半で中東が舞台になっていることがある。そして、こんなことも思った。今の日本の映画界で、こんな大きな話を描こうとするような作品はない。もちろん予算がかかることは目に見えているから、はなから企画に上らないだろう。じゃあ、今、これをベースに映画を作れるとしたら海外資本で、ということになる。監督は誰がいい? ……うーん、例えばギレルモ・デル・トロなら、何か上手いことやってくれるんじゃないか。なんでデル・トロ? だって、犬になった人間がこの社会と対峙する話だよ! 半魚人が唖の女性と恋に落ちる『シェイプ・オブ・ウォーター』とか、あの有名な話を再解釈して『ピノキオ』を人形アニメでやった彼。異形をこの世界に置くことで、いわゆる「フツー」の人間というものの業を炙り出す彼にはぴったりの題材じゃない?

 そうなのだ。この漫画では人間が病気で犬のようになってしまう。劇中、その原因を竜ヶ浦教授はウィルスによるものだといい、桐人はそうではないのではないかと疑う。その解釈の乖離がこの物語を最後まで引っ張っていくのだが、結論から言うと(ネタバレです)、このモンモウ病は水の中に存在するある物質が原因になっている。当然、その設定には50年代半ばに確認され、この漫画の連載が始まる数年前にやっと厚生省がその原因をチッソ水俣工場の廃液に含まれたメチル水銀化合物であると認定した、水俣病への視線が入っている(作品の中でも話題にされる)。しかし今の今だって水道水にPFASが混入していることが問題になっているわけで、決して昔の話でもなければ、単なる絵空事ではない、今日性のある話なのである。誰か、デル・トロにこの漫画を見せるんだ!(PFASについてはトッド・ヘインズ監督の2019年作『ダーク・ウォーターズ 巨大企業が恐れた男』をご覧ください。すぐにテフロン加工のフライパンを捨てたくなります)

 青年誌連載、ということもあってか、『きりひと』では絵の表現的にもかなりチャレンジングなことをやっていて、そのタッチを楽しむという意味でも、今回の大判の判型かつ、いい印刷での復刻は嬉しかった(その反面、ヒゲオヤジとかアセチレンランプとかヒョウタンツギとか、手塚漫画に出てくる常連キャラクターがまったく姿を表さない。自分を甘やかさない、ストロング・スタイルの作品なのである)。時々、ベン・シャーンのペン画みたいなタッチでスゴイ絵が出てくる。ベン・シャーンって人も社会派で、映画『死刑台のメロディ』(1971)で取り上げられたサッコとヴァンゼッティの冤罪事件をテーマにしたシリーズとか、第五福竜丸を題材にした絵とかもあるから、きっと手塚さんは好きだったんじゃないかと思う。あと、そのシャーン的な表現に限ったわけでもないが、変に手を凝らして描き込まれているのが、桐人の友人でありながら、彼のフィアンセをレイプしたり(2回も……また余談になるが、マンガにしても映画にしても、この時代の日本でセックスを描く時に、なぜ「レイプ」という形になることが多かったのか大いに疑問だし、若き自分のセックス観にも陰を落としたと思う)、南アフリカで出会ったモンモウ病のシスターをだまそうとしたりする占部というキャラクターで、あらゆる手塚治虫作品の中でも、読者が最も腹の読めない、行動の読めない異色のキャラという気がするんだけど、彼を描く時の手塚さんの筆致には何か狂気めいたものがあって(藤子不二雄Ⓐの『魔太郎がくる!!』的な怖さだ)、案外、このキャラに一番自分を託していたのかもしれない。

 ところで主人公の「小山内桐人」という名前は「幼いキリスト」が掛かっているという。言われてみれば、主人公はひたすら受難の物語だし、先に言ったシスターの登場で、聖書の引用のような言葉が出てくるシーンもいくつかあるし、桐人が十字架を背負った姿も何度か出てくる。キャラの名前やタイトルに「キリスト」を持ってきているくらいだから、聖書物語のような仕立てにしようという意気込みは最初からあったのだろうけれど、何か僕には、その狙いがそれほど成功している感じがしない。これは単なる邪推に過ぎないけれど、手塚さんはイタリアの監督ピエル・パオロ・パゾリーニが「マタイによる福音書」をそのまま映画にした『奇跡の丘』(1964…日本公開は1966)を観てはいないだろうか。その映画の中で、キリストが起こす奇跡の最初の方で、「私を清めてください」と寄ってくる男の顔を一瞬で治してやるシーンがあるのだが、その男の顔に何かモンモウ病の姿を思わせるようなところがあるのである。

パゾリーニ『奇跡の丘』

 でも、だったら、もっとキリストのいろんなエピソードをダブらせるような描写、使徒たちに対応するようなキャラ配置をあざとく狙ってやっても良かったんじゃないか、とも思ったりする(マグダラのマリア的な存在は出てくるけど)。

 本の最後に編者の濱田髙志さんの解題があり、その中で過去の手塚さんの文章の引用もあるのだが、この作品の発表後、山崎豊子の『白い巨塔』との類似を随分、指摘されたそうだ。彼女も自分も大阪大学医学部をモデルにしている(手塚は同学の前身である大阪帝国大学附属医学専門部を卒業している)。手塚は「医学会という社会を舞台にしたとき、権威とかキャリアという要素をぬきにしてはドラマがつくれないのです」と書いているが、『白い巨塔』の雑誌連載は正編が60年代前半、続編が60年代後半で、手塚が『きりひと』を描きだす71年までに、山本薩夫監督、田宮二郎主演の映画版もあれば、佐藤慶が主演したテレビドラマもあったわけで、やはりその影響、照り返しが全くなかったとは言えないだろう(因みに、映像化作品で一番有名だと思われる田宮二郎主演のドラマ版は『きりひと』よりも後、1978年の作品である)。これはネタバレになってしまうけれど、医学界で権威を手に入れた医師が、自らが得意としていた病気にかかってしまう、というオチも双方同じである。

 とまあ、そういうことはあるけれども、だからと言って『きりひと讃歌』という作品の価値はいささかも揺るぐことはない。この800ページを超える大著で、漫画というのはこんなに凄いことが出来るんだな、ということを多くの人に知ってもらいたいと思う。そして、この『きりひと讃歌』の連載を終えた2年後、1973年の11月に、手塚治虫は「週刊少年チャンピオン」で『ブラック・ジャック』の連載を開始する。『きりひと』で医療の世界からこの世界を見つめるという方法論を自分のものにした彼は、今度は、一話完結のスタイルで、ヒューマンなドラマの数々を再提出し始めるのだ。

 


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