「『幾多の北』と三つの短編」にいたるまで②
どうもこんにちは。今回、「『幾多の北』と三つの短編」を、山村浩二さんのAu Praxinoscope(オープラクシノスコープ)と共同配給するもう一社、WOWOWプラスの担当の山下と申します。今、クリスマスの夜ですが、1/27〜29の新文芸坐での劇場公開に向けて準備に奔走しております。ようやくポスターとチラシ(下の方に画像あります)の印刷に取りかかれます。新文芸坐さんでは新年になればそれらを見たり、お手に取ったりしていただけると思います。予告編も作ってます。これも年明け早々にはまずネットに上げられるかと思います(出来ました!↓)。
さて、前回は僕が初めて『幾多の北』を観て驚いたところで終わってました。何に驚いたのかということを書きましょう。
『幾多の北』は異形の映画です。出てくるキャラクターに人間ではない、得体の知れないものが沢山いる、ということもそうなんですが、この映画そのものの相貌が、他のどんな映画とも違っています。
64分という長さであるにもかかわらず、セリフがなく、ナレーションもありません。しかし全てが絵だけで展開するかというとそういう訳でもなく、わりと頻繁に画面の真ん中にテキストが出てきます。日本語と英語で併記され、その間に出てくるラインが短くなっていく。そのラインが出ている間が、そのテキストが表示される時間です。観客をこのテキストとアニメーションで展開している物事の関連を探りながら、「観る」とか「楽しむ」というよりも、能動的にこの映画に「参加する」ことを無意識のうちに強いられる。音響はしっかりデザインされたものがついていますので、音のあるサイレント映画、とでも申しましょうか。
明快なストーリーらしきものはありません。大きな羽をもった2人組が旅をしていて、彼らが映画の進行を運ぶ狂言回しというか、一本の串のような機能を果たしていますが、この映画世界の中のサイズ感が重層的なので、羽ペンが大きいのか、彼らが小さい人間なのか。行く先々でいろんな景色や動作が展開していますが、情景は荒涼として寒々しく、行いは不可解であったり、不条理であったり。決して楽しそうな、明るいものとは言い難い(それは画面に出てくるテキストに書かれていることも同じです)。2人組はそれらを目の当たりにしているのか、地面、はたまた行く先を見ているので目に入らないのか、そうした風景の中をただ通り過ぎていくばかりです。
ではそれが退屈かと言われればまったくそんなことはなく、常にある種の緊張感が一つのグルーヴをキープしています。寂寞たる情景が不快かと言えばこれもそんなことはなく、不気味なムード、荒々しい筆致にもかかわらず、揺りかごのように心地よい安心感がある。子どもの頃には心正しき大人たちによって完全に機能しているのだと無根拠に信じていたこの世界が、60年近くも生きてくるとまったくそんなんじゃないということを思い知らされてきて、それが9.11、3.11、コロナの流行と来て、いよいよこの世界のハリボテ感を前に立ち尽くしてしまったわけですが、その失望の正体、失望の気分が丁寧に抽象化されて(人によってはしっかり具象に見えるかもしれません)時間という乗り物に乗ったビジョンとして提示される。それを目の当たりにするのは嫌なこと、辛いことであるはずなのに、なぜかホッとする。自分自身が人生で味わってきたものとそっくり同じことをこの人が体験してきたわけではないわけだけれども、生まれてこの方、自分を蝕んできた何かをこの人もある程度同じように感じ取っていて、それらにさまざまな輪郭を与えていく作者に、そうそう、それなんだよ、と頷いている。何を書いてるんだか分からなくなってきました。読んでる方も分からないでしょうが、実際にご覧になれば、僕がこんな書き方しか出来ないことも分かっていただけるかもしれません。観ている間はブラザーズ・クエイやデヴィッド・リンチ作品のイメージのような、首筋に刃物を当てられたような感触にヒヤヒヤしながらも、読後感ならぬ観後感としては、僕はタルコフスキーのエピック『アンドレイ・ルブリョフ』や『ストーカー』を観たあとのような、穏やかな気持ちにもなりました。
僕がこの『幾多の北』を初めて観た時は、まだいろんな映画祭に出品され始めた段階で、次から次への怒涛の受賞ラッシュが訪れるのはもうちょっと先の話ですが、僕は、これは間違いなく過去の山村さんの作品と同じように、いやそれ以上に世界中の目利きを唸らせることになるだろうし、また、日本の一般の人たちにも映画館で観てもらうべき作品だと思いました。そもそも、山村浩二というこんなにすごいアニメーション作家がいるのに、海外での評価に比べて日本国内での認知度が低すぎないか、ということも常々思っていました。まあ、それは山村さんに限らず、いわゆる「アニメ」ではないフィールドで、インディペンデントで作品を作り続けている作家さんたち全体に言えることなのですが。
そして、実はその時、『幾多の北』以外にも山村さんに見せてもらった彼のプロデュース作品があって、僕はまったく未知の作家のその作品にも、心底、驚いてしまっていたのです。次回はその作品、矢野ほなみ監督の『骨嚙み』の話をします。
(続く)
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