戦争とマンガと引力(のらくろの話)
病気や生きづらさをテーマに据えた仕事が増える中「これまで、漫画はどのように社会問題に触れてきたか?」と考える機会が増えるようになりました。そこでいま、私ががぜん気になっているのは「のらくろ」です!!
のらくろの漫画は昔からときどき読んでいたんですが、ある時アニメをみていてふと「これは子どもにはどう映っていたんだろう」と気になりだしたのです。
自分の世代は当然「戦争は恐ろしいものだ」と教えられて育ってきており、戦争を描いた作品に触れることがあっても、反戦の意を込めて作られたものがほとんど。
しかし「のらくろ」は子ども向け作品でありながら思いっきり戦争を描いており、相手を滅ぼし、それで大喜びしたりしています。
戦時中という特殊な状況の中、これはどのような視点で送り出され、受け止められたんだろう。
そんなことを考えて、借りられるものは図書館で借りたり、手頃なものを見つけてメルカリで買ったり、いろいろ掘っています。
しかし、私は大前提として…のらくろが好きなんですよね…。
軍隊に入って喜ぶところ、悲しいとしばしば泣いてしまうところ、おっちょこちょいなところ、ふかふかの手足…もう全てが愛らしい。
1930年代の映画の動きなんてフニャフニャで最高なんです。もう勘弁してほしい。
だからこそ!!
最初のフニャフニャな新人兵から、昇進していくごとに「国の名誉なのだ」と戦火に飛び込んでいったり、満身創痍となりつつも上官から「よくやった」と褒められて笑顔になったり、敵軍を全滅させて喜んだりする場面が増えるのがまさに「闇堕ちする主人公」で苦しい。
最初は四足歩行でぴょこぴょこ可愛かったののらくろが次第に二足歩行で銃を構えるようになり…、ああ、そんな物騒なものを持たないで…地雷なんてしかけないで…包帯姿が痛々しい…しかしこの子にとってはこれが名誉なのだ…。ああ、傷だらけで帰ってきて「誇りだ」なんて笑って…。私は泣きたいよ…。
陽気に侵攻を進める様子には、昨今の世界情勢を重ねずにはいられません。でも絵の良さに唸らされたり、踊る姿にキュンとしたりもして、読めば読むほど、どんな気持ちで読んだらいいのかよくわからなくなってきます。
作者である田河水泡先生は、どういった思いでこれを書いていたのか?これだけ戦争の描写がありつつ、愛されて続けているのはなぜなのか?
そこで先日、訪ねたのが江東区森下にある、「田河水泡・のらくろ館」です。
展示やインタビューで田河先生の思いや、当時の読者からの反響などを知ると、作品を見る感慨もひとしお。
今の目線で見れば、恐ろしい“戦時下”という時代でも、実際はその只中に日々の生活があり、遊ぶ子どもがおり、おもちゃやマンガがあったのよね。良し悪しや歴史の意味だけではない、ささやかで、個人的な“暮らし”が。
加えて、とても印象的だったのが、そこに来ていた人たちの姿でした。
「昔読んだんですか?かわいいですよね」と言いながら、漫画のページをめくる30代くらいの、おそらくヘルパーさんと思しき人。その人がめくる本を「懐かしい。おもしろかったね」と言いながら眺める、おじいさん、おばあさん。
分厚い「のらくろ漫画全集」を黙々と読む小学生。館内で上映されていたアニメを見て大笑いする子ども。
漫画としての魅力が強烈だからこそ、このように元・子どものおじいさんにも、今の子どもにも、私のような一介の漫画好きにも、響くんですよね。作品が持つ引力を目の当たりにし、何か胸に迫るものがありました。
展示や関連書籍を見ていくと、連載や出版、復刊など、本当にあらゆる経緯が戦争に翻弄されています。その荒波を越えてきた歴史も含め、凄まじい作品だと感じました。
作品がどういう背景で生まれたのか、支持された(あるいは消えていった)のかを知るのってすごく興味深い。そして残る作品には、やはり理由がある!
しかし現状、本編は古書以外では読めない様子。作品の性質上「熱い支持を得て復刊!」みたいな展開になりづらいのだと思いますが、のらくろを始め、戦前・戦中の漫画がもう顧みられる機会はもう少し増えてほしいです。
まだしばらく、のらくろの足跡を追う探検は続きそう。続きそうで、あります。