力にものを言わせたくない
先日、朝起きてニュースを見たら「マクドナルドが多様性施策を縮小」「メタがファクトチェックを廃止」という見出しが同時に目に入ってびっくりしました。
いずれもトランプ氏の大統領就任を意識したもののようですが、これまで築いてきた価値観がただ一国の…というか、お金やビジネスや“力”のために、こんなあっさり衰退していくって!やりきれないな。
こういう状況において自分が辛いと思うのは、「こんな状況だから協力しよう」というのではなく「だから、自分も力を持とう」という流れになってしまうこと。力が幅を効かせた結果、また力の価値が再生産され、強化されていくのか…。と思うと気が重くなるのです。
それは私自身が、力では克服できないことを色々持っているからだと思います。力を持つ事がサバイバルスキルと直結するなら、私を含む、克服し得ないものを持つ人間は諦めるしかないんでしょうか。
そう思うと「生きるってしんどい」という想いにならざるを得ません。
先述したのは国際問題ですが、ニュースをだけではなく、力に価値を置く考えは日常でもよく感じます。
何かと出てくる自己責任論。それから、障害や生活の不自由を持つ人へのケアについても。
ケアや社会保障について語る時、しばしば「自分だって将来、弱者になるかもしれないし」という言葉が出てきます。あれに私はいつも違和感を覚えてしまうのです。
「力を持ちうる(弱者ではない)うちは他人事にしてても良い」というのが見える気がして。
思考の段階として、まず自分に直接関係ある事と捉えれば身近なものとして考えられる。それからもう一歩視野を広げると「社会の話である」と認識できる…というのはあるはず。ですから必ずしも、その考えが悪とは思いません。
ただ、既に力を持っていない人(今後も持ち得ない人)にとって、その考え方が与える静かな理不尽さは、絶対にあると思います。
そんなわけで、得られ得ない力とか、今後もかなり得るのが難しそうな力に軸足を据えた流れになっている現在に、危機感を覚えずにいられません。
とはいえ!
落胆させる出来事の一方、励まされる出来事、希望となる人だってたくさんいるのです!それらの光を礎になんとかやっていって、自分も多少なり、その光を別の人に渡せたら…とか思います。
迷ってばっかだぜ!
でも迷うのをやめたら、終わりだとも、思っているのだぜ。