ここから先が未来
嵐の二宮さんが、ご自身のYouTubeで「世界のサプライズ動画」を利用した…というのが話題になっていました。
アイドル好きな知人のRTでたまたま見つけたんだけど、瞬く間に大炎上していて、いやしかし、取り沙汰されて良かった、とも、ちょっと思った。
私はこのサービスは完全に人種差別で、いまさら説明するまでもないと思っているけど、気になったのはこれについて「このサービス(ビジネス?)を差別とみなす方が差別」とか「この人たちは好きでやっているのだから問題ない」「なんでも差別にしすぎ」と言い切ってしまう人たちが少なくなかったこと。
なんでそう考えてしまうのかな。
この問題の解説について、わかりやすそうなリンクを貼ります。
この「サプライズ動画」に出演する人達は収益を得られるかもしれないし、パッと見楽しそうでもあります。でもこれが問題なのは、出ているご本人たちやサービスを使う人だけの話ではないんですよね。
「黒人の方を笑いの対象としてお金を出して消費する」という、これまで歴史が繰り返してきてしまった悪しき流れを再生産・強化している、という点だと思います。
差別問題っていうのは、これまでから今に至るまで、そして、今が未来につながるという事まで考えて語られるべきトピックなはず。「差別と言うほうが差別」と思ってしまうのってこの視点がないからなのかな…とぼんやり思いました。
というのも!私本人がそういう考え方だったからです。身に覚えがあるんですね…。
やっぱり、先述の人たちと同じように「なんでも差別と言い切ってしまうのはどうか」とか「差別問題として捉える時点で、相手と自分の垣根を強烈に意識してる(差別してる)ってことなんじゃないか」…と考えていました。
でもある時それを友達に話したら「その状況が今後も続いても良いと思う?」と言われたんです。恥ずかしながら、その時初めて気付いたんです。
私は、当事者の人の「今」とそれについてしゃべる「今」だけを考えてて、それがこの先も続いていく事について考えてなかったという事に。
日本では、人権を守るという事が、思いやりや個人の慈悲の話になってしまっているように思います。「なんでも差別っていうのはどうか」的な理屈って、まさにそこにつながっているんじゃないかな。
「彼らの権利を守って」という言説が「可哀想だから優しくしてあげて」と混同されてしまっている。
差別に向き合うというのは、差別構造が在り続けてきたという現実を踏まえて「今」を変えていく事であって、おおらかな気持ちで「何はともあれ仲間だ」と、友情に帰結させて丸く収めることじゃないのですよね。
かくいう自分も、そんなに完璧に対応出来てる自信はないですが、あるべき対応や認識というのはアップデートさせていくもの。常に勉強しながら歩く…くらいの気持ちでいたいです。
今日の絵
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