推し活と消費と終わらないお祭り
ここ数年「趣味の推し活が楽し〜」というのを私はあちこちで言ってますが、最近、疑問を感じることが増えてきたので、ここに書いてみることにしました。
作品本体ではなく、その消費についてです。
(こんな話もう識者の人が語っとるわ!って話かも。そう思ったらそっと見守ってあげてください)
大体どのコンテンツにも、グッズやイベントなどがありますが、ある程度の規模や人気があるとその数がかなり頻繁になってきます。
そこにはファンが大喜びする企画がある一方、唐突なコラボや、似たグッズのバージョン違いなど、ニーズが微妙なものも少なくありません。
私はあまりグッズを買わないんですが「これ、誰得なの〜?」などと笑いつつしばらく情報を追っていくうち、徐々に「これの目的は、ニーズを満たすことじゃなくて、消費させることそのものなんじゃないか?」と感じるようになりました。
つまり、消費を絶やさないために消費の理由を作り続けているのではないか?ということです。
というのも、このことに限らず近年、ネットや街中などあらゆる場所がどんどん看板で埋め尽くされていくことに疑問を覚えていたからです。
買った商品を手にして「これいいなあ」と喜んでいる間にも、関連商品がおすすめされる。次の企画が登場する。
その、次々と現れる誘惑と、広告だらけの街、そして私たちの生活における情報の持ち方は、全てとてもよく似ていると感じました。
空白や“間”がないのです。
ネットの発展で情報の授受がスピーディーになった結果、一つを深く掘り下げることより、多くの手札を持つ事が価値のようになってきました。(学問や深い知見より、TikTokでのバズの方が話題になる…と言うようなことです)
その価値観の中にいれば、手札を増やす為の情報や消費は、価値と直結します。ですから、絶え間ない情報とその消費が肯定的に受け取られるのは当然でしょう。
私だって、新しいものに一喜一憂したりワクワクもするし、その高揚感による快楽は理屈じゃないとも感じます。翻弄される楽しさってのもあるし。
ただ、そういった快楽の種を延々蒔き続けられること、それにずっと翻弄され続ける暮らしはなんだか中毒的であり、長い目で見た時ポジティブなものとは思えないのです。
こういう意見に対して「お金を使って経済を回したほうがいい」という言うのもよく聞きます。
しかしそれはあくまで行為と消費の結果としての話で、消費のために消費をする、というのは本末転倒だと感じます。
私個人の推し活だけの話なら「じゃあ買わなければいいじゃん」で良いんですが、この話は決して、そんな狭い範囲のことでありません。
災害があった時にしばしば聞かれる「余計なものはいいから、とにかくお金を送れ」という極論。「金を出さないのに文句を言うな」という理屈。どちらも私はすごく嫌いです。
この、消費こそ社会参加の基本であるという感覚は、そのまま、経済活動への貢献度が低い(ように見える)社会的弱者へのバッシングに繋がっていくからです。
お金というのはハッキリとした数字で、物差しとして使いやすい。だからこそ、お金では図れない物は見えにくくなっていきがちです。
常にあらゆる形で消費が促され続ける今だからこそ、自分の消費は自分に、また自分を含んだ社会の未来にどのようにつながるかを意識する必要があるように思います。
疑問を持つことで、モヤモヤする部分は出ますが、そのモヤモヤは、自分が気持ちよく生きられる環境をあぶり出してもくれるはずです。
余談(?)
3年くらい前に書いた漫画を載せます。その頃はまだ今ほど“推し活”というのがあちこちで出てはいなかったから描けたんだろーなと言う気がする。
今は、企業側も“推し活”をプッシュしてくる空気になってきたから、この頃ほど無責任にテキトーにいられなくなったのかもな〜。
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