小さい力を愛しているのだ
あちこちの政治が揺れていますが、先日の韓国の戒厳令の宣言にはビックリしました。
ビックリというか、あまりにもすごいスピードで、何があったのかよくわかりませんでしたが…。
で、こういう時に上りがちなのが、その権力者たちを茶化したりミーム化する声。私は、この声がすごい謎なんですよね。
市民の生活が脅かされたり軽んじられたりするって、本来は憤るトピックのはず。それに、自分に近しい人…でなくても、SNSでフォローしている相手や、多少なり見知った相手がその危険に晒されているかもしれないし、日本と関係が深い国なら、たとえ自分が今日本に住んでいても無関係ではない。それでもなお、笑ってしまうという感覚の正体って何なんだろう。
「いちいち怒っても仕方ない」「怒ったところで変わらない」みたいな感じなのかな。
前、社会運動に積極的な友人にそのモチベーションを問うたところ「自分を諦めたくないから」と返されたことがありました。
それを聞いたときは、わかったようなわからないような感じだったんですが、その「諦めたくない」という感覚の真逆に当たるのが、先述の「怒っても意味ない」なのかもしれません。
「怒っても意味ない、それで何か変わるとは思えない。自分を含む市民には力がない」。その延長にあるのが、冷笑や、抵抗する人を揶揄する感覚なんだとしたら、なんとなくわかる気がします。肯定こそしたくないけど、私もそういうところがあるから。
ただ、それでも、何か行動を起こしたいと感じる理由は、私の場合、自分や近しい人の行動で人に変化があった実体験がある、というのが大きいです。知り合いの言葉に「そんなことがあるとは知らなかった」とハッとさせられたり、自分が言ったことで「この間あなたが言ってたのをきっかけに本を読んでみたんだ」と言われたり。
それは社会構造の変革!…なんて大きいものではないけど、小さな変化がたくさんあったら大きい変化になるから、それであまり、諦めずにすんでいるかもしれません。
で、誰かと意見を交えることは大事だな!と感じ、しかし直接論戦を交わすコミュ力も度胸も正直あんまりないので、“トロい人間なりの一人デモ(?!)”みたいな感じで、こうして何か書いたり本を作ったりしているわけです…。
微々たることでもしないよりマシだ!少しの変化を少しずつ歩く、亀の歩みの力を信じて!