「頑張らなくていいよ」じゃなくて、「コーヒーでもいかが?」と笑ったあなた
写真が好きで、好きでいつづけることがつらかった時期がある。
思うような写真が撮れなくて、悩んで、足掻いて、撮ること自体を苦痛に感じたこともあった。
いっそ忘れられればと距離を置いても、無意識にカメラに触れてしまう。
好きでいることよりも、撮ることよりも、写真から離れるほうがつらいのだから答えは出ていた。
名ばかりの写真作家を続けたくて、アルバイトに明け暮れた日々。写真を優先できる環境であれば何でもやったし健康なんて二の次だった。
空を見上げる余裕さえない。次のバイト先へ向かう電車での仮眠が私の気力をつないでいた。
斜め前に立つおばあちゃんに席を譲ろうか迷って、「無理だ」「どうして今なんだ」「せめて今日が休みなら」なんて理不尽な怒りを覚えることもあった。
記憶は曖昧で、うつらうつらとした意識のなか渋谷に着いたアナウンスだけがやけに耳に残った。
写真と真っ直ぐ向き合えないまま、時間だけがすぎる。
「頑張っても報われないのは、頑張り方を間違えているから?」
「本当はもう諦めたほうがいい?」
「才能なんてないんだから、全部捨てて地元へ帰ろうか」
後ろ向きな考えばかりが浮かんだとき、
「恋人さん、コーヒーでもいかが?」
とあなたが言った。
悩んでいた。確かに悩んでいたのに、してやったり感のある彼女の笑顔に思わず気が抜けて笑ってしまった。
彼女につられるように「いただこうかな」なんて芝居掛かったセリフを返してコーヒーを受け取ったとき、はじめて自分の指先が冷えていることを自覚した。
「私の淹れるコーヒーはどこにでもあるような普通の味だけど、君が好きだって言ってくれるから何杯でも淹れたくなるの」
「そんなことない。おいしいよ」
「それはさ、きっと君が私を好きだと思ってくれているから。私からすれば君の淹れるコーヒーのほうがおいしいからね」
「それは、私がカフェでバイトしてるから」
「お酒だって、同じ材料を使っても君が作るカクテルのほうがおいしい」
「それは、私がバーでバイトしてるから」
「そうやって揚げ足を取らないの。君のほうが年下なんだから素直に聞きなさい」
クスクスと笑うあなたがかわいくて、あぁ好きだなって思った。
「それに、私は君の写真が好きだし、もっともっと好きになると思う」
「……恋人の欲目でしょ?」
恥ずかしくてひねくれたことを言ってしまったけど、わかっているとでも言いたげに彼女は言葉を続けた。
「そうだけど、そうじゃないかなぁ。たとえば、いつか別れることがあっても私はきっと君の作品をこっそり買うし、そのときの恋人に見つからないようにクローゼットの奥に隠すと思う」
「悔しいけど、一人で眺めてニヤニヤしたり泣いたりしながら『いい写真だなぁ』『好きだなぁ』って何度も思うのよ」
「残念ながらこれは変えられない未来だから、ずっと君のファンでいさせてね」
背伸びをしたかったから、格好つけたかったから、写真についてもバイト漬けの毎日についても弱音を吐いたことはなかったのに。
呼吸が途切れて、心臓が痛くて、死ぬかと思った。
「そうだね、考えておくよ」なんて冗談っぽく返した声は、彼女にどう聞こえただろう。
「頑張らなくていいよ」の言葉に、やさしい気持ちが込められていることは知っている。
でもほしいのは、ほしかったのは「頑張らなくていいよ」って言葉じゃなかった。
だって、頑張りたい。
そう、つらくても頑張りたいんだ私は。
「コーヒーでもいかが?」
あのとき彼女のくれた何気ない言葉が、離れた今もずっと写真に向き合う勇気をくれている。
「ありがとう」は、いつか写真で。
すくいあげてくれたら、嬉しい。