ため口の魔法
受験して入学した中学校の初日で驚いたのは、同じクラスの仲間でも初めは敬語を使うということだった。
でも時間がたてば、自然と“ため口“に変化し、苗字+さんで呼ばれてたのが、あだ名で呼ばれるようになり、そこまで来ると、ああ、友達として認めてもらえたんだなと理解できた。
なんか、この、
相手の中での、受け入れ度合いが見える化されるシステム
敬語⇒ため口へのステップや、苗字+さん⇒あだ名へのステップが、私はちょっと苦手だった。
ちなみに、私の母と祖母は嫁姑の関係で、家の中で唯一敬語を使いあうのがこの二人で、敬語が関係性を象徴していた。
社会人になれば、敬語は当然のこととして常用するようになるのだけど、同僚同士で互いに気を許せば、年齢関係なくため口で話すこともあった。
ここまでになれば、相手と楽に付き合え仕事もしやすかった。
初めから全員とこんな感じで付き合えたら、どんなに楽なんだろう?
ふと、YouTuberのフワちゃんが徹子の部屋に出演した際の動画を思い出した。フワちゃんは、相手が誰だろうといつでもフワちゃんで居て、話し方(ため口)も立ち振る舞いも変えない。彼女はそれが芸風だから当然と言えば当然なのだけど、かなりスゴイことだなと思った。
私は自分の芸風は特にないのだが、初見の相手には、まず、
「相手がどう思っているか?」ということが気になり、「自分がどうしたいか?」は押し殺し、とにかく無難な態度で接して様子を見ることが常。その結果、「自分とはこういう人です」という表現が乏しくなり、「私」の印象は相手には残らないことが多かった。
いつなんどきでも「自分として振る舞う」ことは私にとっては勇気のいることだと感じるとともに、「自分として振る舞う」ことが出来たら人との距離感も近くなり、きっと楽しいだろうなとも思っていた。
ある時、職場で新入社員の女性が私の隣の席になり、初日は私が色々と教えることになり、帰りも偶然同じタイミングになったので駅まで一緒に歩いた。出会ってたったの数時間だったけど、私は彼女のことが好きになった。
それは、彼女の言葉遣い。
彼女は、敬語とため口をバランスよくミックスさせて使っていた。
初日からため口だけだと、かなりのインパクトを与えるけれど、彼女の場合、基本的には敬語で、その中にため口が混ざっているというバランス。
親しみやすさと、相手への配慮が絶妙に配合されたちょうど良いバランス。
しかも帰り道には、そのバランスはため口に比重が置かれている。
自然と私も心を開いて彼女と接するようになり、彼女は、私にとって、すごい早さで信頼のおける楽な同僚になった。
ため口には、人間の距離を溶かす魔法があると思う。
言葉が先に立ち位置を定義すると、それに心が引きずられるのかもしれない。敬語をゼロにとは言わないが、もっと、ため口の比率を増やせば、なんか親しみのある社会になるんじゃないかなと思う。
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