呪怨:呪いの家が継承するもの

何かで読んだのだが、Jホラーが出始めの頃アメリカ人はその怖さがわからなかったそうだ。物理的に危害を加えるでもない、ただボーっと佇んでるだけの幽霊は怖くもなんともないというのである。隣人が銃を携帯していること、そして人種間の対立が建国以来のアメリカの恐怖の源だとするならば、日本の恐怖を形作っているものは何だろうか?

Jホラー創世期の最重要作品を3本挙げるならばそれは『女優霊』(1996年)、『リング』(1998年)、『呪怨』(2000-2003年)になるだろう。いずれも監督は異なるのに対し、本作品の脚本家である高橋洋はその全てに重要な役割を果たし(『女優霊』『リング』の脚本、『呪怨』シリーズの監修)、彼こそがJホラーというジャンルを方向づけたといっても過言ではないと思う。

高橋洋作品を共通して貫いているものは姉妹(本作品では姉弟)関係、血縁、すなわち血のつながりだ。本作品は時代を超えて一軒の家に関わる人々が呪いを継承していく姿を描いている。ただ重要なポイントとして呪いを受け継ぐ者は男女のカップル、それも子孫という次世代を生み出す可能性を孕んだ単位に限られる。それは個人が社会化される際の最小の単位であり「家族」と呼ばれる。より正確に言えば、個人と個人がそれぞれの意思で共同で生きるということを選択する2人だけの単位ではなく、「子」という海のものとも山のものともつかぬ闖入者、どのような個性や意思や思考を持つやら見当もつかぬインベーダーを繰り入れる「覚悟」を持つ、最低3人以上の単位を指す。劇中初老の不動産屋が「呪いなんて気にしてたらこの商売出来ないですよ」というホラー的には身もふたもない真実を言ってしまう場面がある。彼は家族という単位から切り離された一個人として描かれ、ゆえに呪われない。

本来家族も他人同士の集まり、個人の集まりに過ぎない。個人とは自由に生き、自由に死んで消えていくものである。ところがその個人が自らの死の先を夢想し希求するところから継承という幻想が生まれる。継承、すなわち死後もこの現世に自らの痕跡を残さんとする欲望である。死後の財産、名声、地位、田んぼ、「家」、などなど死後には全く無価値で不可知な物事への執着が継承を求め、本来他者である子供に対して血が繋がっているがゆえに他者ではないのだ、という幻想を強制する、血の幻想によって束ねられた単位が家族、血縁なのである。

血縁は強制されたものゆえに軋轢を生み、軋轢は悲劇を生む。本作品では血縁による継承という幻想の共有を強制しあう者=家族が呪いに翻弄され悲劇に襲われる。DV、児童虐待、監禁・・・家族とは家とはそれ自身文字通りホラーハウスなのだ。しかし悲劇自身は呪いの結果に過ぎず呪いの原因ではない。

本作品は昭和から平成へと移り変わる日本が舞台となり、その時代に起きた数々の大事件が映し出され、そのいくつかは直接ストーリーのモチーフとなっている。いやおうなしにテレビに映し出される悲劇を追体験していくうちに視聴者は気づかされる。これは日本という家族(=その血のつながりという継承幻想を強制的に共有するもの)が引き起こす悲劇なのだ、日本という家がホラーハウスなのだと。呪いの原因へはあと一歩である。

日本という家族の昭和から平成への転換期を描くにもかかわらず、その最も重要であった事件は本作に登場しない。男子継承制において家族の頂点に立つ家父長・昭和天皇の死だ。「映画秘宝」のインタビューにおいて天皇の死を描かなかった理由を問われた高橋洋はストーリーをまとめる上で手が回らなかったからと軽くかわしている。しかしたとえ軽く見せようと、制限が緩いことが売りのネットフリックスで、現実の事件の自由な解釈や宮崎勤が役として登場する作品、家族という制度、日本という大家族が構造的に孕む恐怖がテーマの作品に登場どころかその存在に触れることもしない、出来ない家父長、それが天皇なのである。天皇は隠されている。継承という幻想を強制し、強制によって束ねられたホーンテッドジャパンに君臨するビッグダディが隠されている。

冒頭のアメリカと日本のホラー感の差異に立ち戻ってみよう。Jホラーとは物理的な恐怖ではなかった。『リング』が一番わかりやすいが、呪いの犠牲者は物理的な危害を加えられて殺されるのではなく、幽霊(でもなんでもいいけど)を見た恐怖で死ぬ。怖れを感じることによって自ら死に至るのである。つまり死の原因は自分自身の中にあるのだ。自らの中にある怖れが立ち上がるとき恐怖するのだ。ボーっと佇むものが恐ろしい?それは普段佇むものではないからだ。佇んではいけないものだからだ。佇むことを許されないもの、自らの中に隠しているもの、触れてはいけないもの、あってはならないとされているものが表に出てしまっているからだ。呪いとは隠されているもの、隠すこと自体なのだ。

血の幻想が悲劇を生む。悲劇は隠され、触れてはいけないものとされる。そうして幻想の継承とともに隠されたものが積み重なり継承されていく。隠されたこと(呪い)が新たな悲劇を生み、それ自体が隠されるもの(呪い)になる。これが呪いの増殖と連鎖なのだ。

では日本という家族にまつわる呪いとは?継承という強制幻想に不都合な真実の隠蔽である。日本という血のつながりの幻想を強制されることによって生じた歪みが引き起こした数々の戦争や虐殺や残虐行為を隠蔽すること、その隠されたことに日本人はおびえ続けなければならない。

本作品は当然の結末を迎える。呪いを解くことは隠蔽する(埋める)ことではない(呪いが望むことは呪いの継承なのだから)。隠すことをやめること。隠さなければならない悲劇がうまれないようにすること、悲劇が生まれる歪みをなくすこと、歪みを生む強制を解くこと、強制を生む継承という幻想を抱かないこと。

隠されていることに対峙しない限り、隠すという連鎖を断ち切らない限り、自らの恐怖に恐怖する呪いの連鎖は継承され続けるだろう。

いいなと思ったら応援しよう!