装いの呪縛
今回のテーマ:ファッション
by 福島 千里
過去の写真などを見返していると、どの写真でも私はだいたい同じ、もしくは似たような服を着ていることが多い。久しぶりに再会する友人にもよく指摘される。
「いつも同じ服着てるよね〜」(注:悪気はない)
20年前の私なら、この言葉を恥ずかしいと思っただろう。けれども、今は違う。自分が着たいという服を着ている。ただそれだけのことだ。だから、運転免許証を更新しても同じ服装の自分が写っている、なんてこともある。
はるか昔、大学進学のために地方から上京したてのころは、日々の洋服選びが苦痛でならなかった。同級生はみなおしゃれだった。ファッション誌に出てくるようなジャケットやシャツ、流行のチノパンに身を包み、誰もが隙なくきちんとしている。なまじ周囲が洗練されているだけに、自分だけが浮くのが嫌だった。誰かが話題のスタイルを追えば、自分も同調しなければカッコ悪いという圧も感じた(今思えばそれは単に若かった私の幻想だったのだけど)。けれども、その数ヶ月前まで制服とジャージ暮らしを送っていた田舎の高校生にとって、この装い選びが悩みの種だった。
自分なりに背伸びして、当時流行だった紺ブレやカシュクールなどに袖を通したこともあった。が、どうもしっくりこない。人気の細身ローファーにもちょっと憧れたが、幅広甲高の足を持つ私には、キツくて苦痛でしかなかった。
けれども、ニューヨークに来てからは、そんな悩みはどこかに行ってしまった。世界の流行発信地であるだけに、ここには確かに一定数のおしゃれな人たちも存在する。が、よく周りを見渡すと、多数はそれほどでも・・・といった感じだ。それに、個人が流行を追うのも追わないのも、誰も気に留めない。自分が望む装いをすればいい(もちろん、社会人であればTPOを踏まえたそれなりの服装は必要だが)。
今、私のクローゼットには、決まったものが並んでいる。自分の体型や自分らしさ、そして仕事をする上での機能性を踏まえたワードローブ。気に入ったものを気が済むまで着古した後は、次に似たような衣類をつけ加える。そんな繰り返しだ。
だから、記念撮影などをすると、往々にして10年前と同じ出立ちで微笑んでいる自分の姿がいて、古くから私を知る友人などは、それを知っていて指摘したりする、というわけだ。
日本語ではしばしば限定的に“服装”を指すファッションという言葉も、英語ではもっと広義で“fashion=流行”そのものを意味する。ライター&コーディネーターという仕事上、おしゃれのことを含め、常にさまざまな分野の流行にアンテナを貼ることは必須だ。だから専門分野ではないにせよ、私もおしゃれのトレンドはチェックするようにしている。けれども、自分自身の装いに限っては、自分らしさを崩してまで追随する必要はまったくないのだ。それを人によっては野暮ったい、時代遅れと見ることもあるだろう。けれども、ニューヨークに来てからの私は、装いの呪縛から開放された。今は自分が自分らしくいられる装いで、快適な日々を過ごしている。
📷:トップ写真はいつぞやのNYコレクションの一幕。ランウェイを歩くモデルにいっせいにカメラを向けるフォトグラファー集団
◆◆福島千里(ふくしま・ちさと)◆◆
1998年渡米。ライター&フォトグラファー。ニューヨーク州立大学写真科卒業後、「地球の歩き方ニューヨーク」など、ガイドブック各種で活動中。10年間のニューヨーク生活の後、都市とのほどよい距離感を求め燐州ニュージャージーへ。趣味は旅と料理と食べ歩き。園芸好きの夫と猫2匹暮らし
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