登山の「想像力」は、生き延びるための力である仮説
登山をする自分を想像する。
そこでの息づかい、見える風景。
感じる気温、ザックの重さ。
身体の疲労。
登山という行為の特異なところは、この想像力が研ぎ澄まされていくことであり、またそれは「なぜ登るのか」の本質なのでは、と思ってきた。という話を書きます。
超強烈な登山家、山野井靖史さんが登山のモチベーションについて以下のように語っていた。
最初に読んだときは、山野井さんレベルの最強のクライマーでも「そこを登る姿」がモチベーションになるのか、とシンプルに驚いた。「そこを登る自分」を想像することをモチベーションにするのは、何というか、「俗っぽい」行為である気がしていた。もっと崇高なもののために登っていると思っていた。
ふと最近、YAMAPの記録より以下の写真を眺めていてふと気付いたことがあった。
高知県の大堂海岸というクライミングエリアでの写真だ。青い空をスパッと断ち切る白い大岩壁。そこを登る赤いシャツを着たクライマーが一人。
これを見る人によっては、「あー危ないことやってるねぇ」で終わるであろう。しかし、既に私はこの「大岩壁を登る自分」をイメージできるようになっている。そうすると、以下のように想像力が加速する。
登山やクライミングをやっていると、一枚の写真に対して「そこを登っている自分」という想像力の解像度が異常に上昇する。「下から眺める」自分ではなく「そこに居る自分」を想像できる。そして論理的ではなく、身体感覚として、五感を使ってそこに居ることができる。
登山の「デカさ」という特異性について以前にブログに書いた。
この「想像力」のあり方もまた、登山の特異な要素であろう。そしてこれこそが、登山の本質であり、また人生の本質なのかもしれない。
未来への手がかりは僅かだ。しかし「そこに居る」未来を想像すること。そこの息づかいを想像すること。それがもう少し長く生きるモチベーションになる。
お金を稼ぐ、楽しい思いをする、などよりももっと直接的で、身体的な「そこに居る自分を想像すること」「そしてそこに行かなければ」と強く願うこと。生きていくことは、そんなことを少しずつ紡いでいく行為なのでは。
登山の言語化しにくい「楽しさ」は、こういう「想像力」を徹底的に鍛えられるところにあるのかもしれない。楽しく登り、生きよう!
ちなみに、山野井さんは幾つか著作があり、どれも突き抜けており、そして本質を射貫く言葉で語られていて面白いです。
山野井さんを知らない方は、沢木耕太郎さんの書いたノンフィクションの以下がオススメ。マジで凍えます!
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