吹田事件の意義は立場を超えて認められてきたもの
吹田事件の意義は立場を超えて認められてきたもの
ー関係者の名誉を傷つける自民党議員の質問と吹田市の答弁ー
吹田市議会で2月29日、自民党の藤木えいすけ議員が1952年に朝鮮戦争と軍需輸送に反対して起こった「吹田事件」を取り上げ、警察側の資料や後年に書かれた書籍をもとに、吹田事件デモ隊の目的は吹田操車場の襲撃だったと述べ、「吹田市内を恐怖のるつぼに落とし込んだ政治的な武装デモだった」として吹田市立図書館がメールマガジンに掲載していた事件紹介文の修正や学校での教育などを吹田市に求めました。
ここでは藤木議員の質問と市の答弁について、問題点を指摘するものです。
藤木議員の主張はその大半が裁判の中で、警察・検察が証拠に基づかずに持ち出したものとして、裁判所により却下されたり、弁護団や証人によって否定されたりしたもので、騒擾罪の無罪判決として審判は下されているものです。
さらに藤木議員は、「威力業務妨害罪では46人が有罪となっており、正確な記載ではありません」と、長期裁判の要因であり、最大の焦点だった騒擾罪ではなく、二審判決で執行猶予付き罰金という実質無罪だった威力業務妨害罪を強調するよう市に求めたのでした。
重大なことは、吹田市の地域教育部長が、「当時のデモ行進で武力衝突があったことなど当該事件の状況が正しく伝わるよう記事の内容を訂正する」「(威力業務妨害罪について)記載が十分でなかったと認識しており、当該事件について誤解を招かないように有罪無罪の裁判結果も伝える」と答弁したことです。
デモ参加者は、シュプレヒコールをしたり、沿道に呼びかけたり、ただついて行ったりしただけで長きにわたって騒擾罪の「被告」とされ、本人はもちろん家族まで失職させられたり、朝鮮人被告は、家族との生き別れが数十人にのぼったりするなど、苦しい生活を強いられてきました。吹田市は、騒擾無罪となったことを受けて、市制施行50周年記念のときに、市当局自身によって「吹田騒擾事件」と記載してきた事件の呼び方を修正し、市が発行する『郷土吹田の歴史』に訂正文を挟み込む対応をして、一定の名誉回復をはかってきた経過があります。
また、吹田事件から70年となる2022年には、主任弁護人だった石川元也氏が所有していた史料を吹田市立博物館が受け入れ、メディアからも「自由の希求 後世へ 朝鮮戦争反対デモ『吹田事件』裁判資料を寄贈」(朝日新聞夕刊、2022年12月14日)など、肯定的に評価されてきました。同年10月16日には石川氏を招いた講演会「朝鮮戦争と吹田事件」が博物館で開催され、自民党は前衆院議員が祝電メッセージを送っており、政治的な立場を超えて、吹田事件の意義は認知されてきたのです。
藤木議員の質問と市の対応は、元・被告や事件関係者の名誉を傷つけるものであり、裁判で事実認定されなかった「武力衝突があった」と答弁するなど、歴史修正ともいうべき、恥ずべき行為です。
藤木議員の主張は裁判で明確に退けられている
吹田事件の判決は、「集団行動の目的は、検察官の主張するように、吹田操車場において軍需列車を襲撃するとか破壊するとかにあったと認めることはできず、朝鮮戦争に反対し、吹田操車場の軍需輸送に対する抗議のための示威行進にあったと認めるのが相当である」「真に集団が操車場襲撃を企図していたものとすれば、操車場においてもっとそれにふさわしい行動があってしかるべきものと思われる」と、吹田操車場の襲撃を目的としていたなどとする藤木議員の主張を明確に退けています。
藤木議員は、「警察官の警備線を突破し、不法に吹田操車場に侵入して場内デモを行い、同市より脱出後、吹田市内でも行進し、その間、アメリカ駐留軍将校用乗用車、警備官満載の輸送車、吹田市警察派出所を3ヶ所襲撃し、吹田駅構内においても検挙・警察官に反撃をくわえ、吹田市内を恐怖のるつぼに落とし込んだ」と述べています。
しかし、そもそもデモの自由がある中で、警察が警備線(須佐之男命神社前)を張る法的根拠はありませんでした。そして警備線は暴力ではなく、警官隊が八の字に道を開ける形でデモ隊を通していることは裁判で警察が認めており、写真や映像でも記録されています。
藤木議員は、デモ中に起こった一部の参加者による暴行をもって、デモ隊全体を「暴徒」と評していますが、デモ隊全体は立ち止まって行為者を支援することはなく、粛々とデモを続けました。だからこそ、デモ隊全体に「暴徒」としての共同の意思がなかったものとして、騒擾罪は無罪になったのです。
なお、一部のデモ参加者と警察などとの「衝突」は、なぜ起こったのでしょうか。裁判での菅原昌人弁護士の次の弁論が端的に明らかにしています。
デモ隊の様子について裁判で証人として証言した地域住民たちは、「太鼓をたたいたり歌をうたったり、おもしろいなぁと思ってみていた」「兎狩りのような感じでした」と語っており、むしろ「恐怖のるつぼ」に陥れたのは、国鉄吹田駅に整然と入って流れ解散し、列車に乗り込んだデモ参加者を銃撃した警察隊でした。検察は銃撃で負傷したデモ参加者を起訴せず、後に警官の職権乱用であったとして賠償が行われていることからも不当性は明らかです。
また、警察が人員的にも装備的にも飛躍的に増強され、デモなどに頻繁に干渉してきていた当時、一部のデモ参加者が火炎瓶や竹、棒、石などを持っていたことについて、吹田事件の判決は、「これら『武装』なるものは(中略)全般的には防衛的なものであったと認められる」と「武装デモ」という見方を否定しています。
検察側が証拠に基づかない論告を続け、裁判所から論告中止を命じられた際、赤沢敬之弁護士は、次のように検察を厳しく批判しています。
「証拠でないものを勝手にふりまわして…」とは、まさに現在の藤木議員の態度に当てはまるでしょう。
吹田市は、石川弁護士から裁判資料を寄贈されたにも関わらず、こうした裁判の到達を何ら考慮せず、事件について一定の名誉回復をはかってきた市の立場も忘れて、藤木議員に迎合する答弁を行いました。また、教育監は藤木議員の求めに「(吹田事件について)児童生徒の発達段階に応じた学習機会を提供してまいりたい」と答弁していますが、子どもたちにどのような授業を行うかは学校が判断することであり、政治家の介入は退けなければならないことです。
市が行うべきは、答弁を訂正して関係者の名誉を回復するとともに、存命している事件関係者への経過の聞き取りと史料調査を行い、改めて郷土の歴史として正確に事実を伝えることです。
吹田事件の今日的な意義-70年以上前の事件が今問うていること
朝鮮戦争当時、朝鮮半島が二つに分断され、同じ民族が傷つけあう中、日本は戦争の特需景気で経済復興を遂げていきました。こうした時代に、日本人と朝鮮人がともに戦争と軍需輸送に反対した吹田事件は、日本の歴史上稀有なできごとです。
また、騒擾罪が完全に無罪となったことで、これ以降、政府は社会運動やデモに騒擾罪を適用できなくなりました。市民の自由な表現活動の発展に寄与したのです。司法権の独立に関わる「黙祷事件」や日本の裁判史上初といわれる検察への論告中止の判断など、司法史にとっても重要なできごとでした。
吹田事件は、今日も終わっていない朝鮮戦争の問題を私たちに考えさせるとともに、戦争への協力をすすめる日本の姿勢を問うています。様々な学域からの研究こそ求められているのです。
Ko Fukuda
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