グレーゾーン


この自粛生活、蟄居暮らし、ほら穴住まい
の期間中
とある sns で大学時代の友人と繋がりを得た。

彼は現役の教師なのだが、
僕がいままでに見てきた中で
トップクラスに人格が優れていて、
彼なら教壇を任せられるなと思う人間である。
(どこか上からな口振り)

昨夜 LINE にて、
彼からは「泰然自若」
というワードも得ることができた。
激動の流れの中でも、
自分を見失いたくはない
という気持ちの表れであろう。
(どこか上からな展望)


先日、とある課題をやっていて
「よりよく生きる」ということに
関していろいろと考えてしまった。

確かに、
かのソクラテスも
「善く生きる」
ことを肯定している。

これは、
人間が
善くありたい
と思う天来の性質からくる
ものなのかもしれないが、
皆がみな実践できるようにも思われない。

『白夜行』(TBS ドラマ)の中で、
俳優の武田鉄矢がぶつぶつと唱えている
ことばがあって、
それは親鸞の『歎異抄』からである。

その内容としては、
善人でさえ浄土へ行けるのに
まして悪人が行けないことはない、
という一見
パラドックス的なことを
言っているのだが、
ある意味でそれは真理かもしれない。

世の中の人間の
ありとあらゆる所作が
「善」「悪」の二つに
峻別できるとは思えないが、
グレーな事柄は
一体どこへ向かうのだろうか。

ソクラテスが、
たとえ悪行を働いてしまっても
その後にいくらでも
人は「善く」なれる
ということを
伝えたかったのだとすれば、
ソクラテスも親鸞も
もとのベースは同じである。


少し戻って、
では僕自身が
「よりよく生きよう」と
しているのかと聞かれれば、
結構なレベルで怪しい所がある。

なぜかというと、
もともとの面倒くさがる感じが
身体の中枢まで浸透してしまっており、
なかなかそれを排出することは
難しいと感じるのだ。

いったい何が
「よりよく」なのかは
よくわからないが、
個人的には
ラクな方がいい
と思っている。




まあ、
おもむろに
ひとりで善がる
午前四時。







以上

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