-屋上-
子供の頃によく訪れた
百貨店の屋上へ、
男は久しぶりに足を運んだ。
警察官の仕事にも慣れ、
なんとなく将来への展望も
持ち始めた頃である。
しかし、少しだけ
退屈な感じもあるようだった。
「お兄さん、いらっしゃい」
そう声を掛けてきたのは、
自分より20才くらい上の
中年の男である。
こんな店あったっけか
と男は思ったが、
なんか面白そうなので
話を聞いてみることにした。
「お兄さん、こういった商品はいかがですか」
男が目を向けると、
台には
得体の知れない箱が
いくつか置かれている。
左から順に、
〖権力〗〖名声〗〖安定〗〖資格〗〖心〗
といった具合に
字が書かれてある。
他にも少しあるようだったが、
男は、
〖心〗というのはなんですか
と中年男に尋ねた。
すると、
「そうですね、
なんとも言い難いのですが。
いまだったら無料でお渡しできますけど」
と中年男は言ってくる。
”ただより高い物はない”
という文句が
男の頭の中に浮かんだが、
中年男からは悪そうな気配を
感じなかったので、
取りあえずその箱を
受け取ることにした。
「ありがとうございます」
そう言うと、
中年男は深々と頭を下げた。
無料でもらったのはこっちの方だが、、
と男は内心で思ったが、
中年男の姿は
どことなく
うれしそうだった。
〖心〗
という字が書かれたその箱を
自宅に持ち帰ったものの、
しばらくの間は開けずに放置していた。
数ヵ月経ってから
部屋の掃除をしていた時に、
なんとなく開けてみることにした。
が、箱の中身は空だった。
箱自体はきれいな形で
何かに使えそうだったので、
男は部屋の隅にそのまま
置いておくことにした。
数年後、
男は結婚をする。
小さな男の子も授かり、
幸せな日々を送っていた。
とは言うものの、
年齢的に仕事では
役職に就き、
それなりに重要な役割
を担っていた。
やりがいを感じてはいたが、
精神的負荷もそれ同様に
のしかかっていた頃である。
男は、
再びいつかの
百貨店の屋上へと、
足を運んでいた。
そういえば、
あの時の中年男の商店は
どうなったのだろうか。
たしか、
屋上の隅っこの方に
あったはずである。
まさかもうないよな、
と心の中で思っていたのだが、
いつかのその場所には
あの時の
中年男の姿があった。
「お兄さん、いらっしゃい」
いつの日にか耳にした、
あの時のフレーズである。
「あなたはまだ、商売をしていたのですね」
男がそう話しかけても、
中年男はどこか
聞いていないような
装いだった。
目を向けると、
今度はなにか
いかがわしい面を売っていた。
夏祭りの屋台で売っているような
お面に近いが、
それよりかは少し地味な感じある。
あくまで大人向けなのだろうか。
「お兄さん、こういった商品はいかがですか」
これも、
いつの日にか聞いたフレーズである。
よく見ると、
置いてある面のそれぞれの額には
〖喜〗〖怒〗〖哀〗〖楽〗
の文字が打たれている。
「どれがおすすめですか」
と男が聞くと、
「そうですね、
なんとも言い難いのですが、、
これなんかはどうですかね」
そう言うと、
中年男は〖楽〗の文字が書かれた
面を差し出した。
「〖楽〗か
いいですね。
おいくらですか」
と男が聞くと、
「いまだったら無料でお渡しできますよ。
お兄さん、いい人だから」
と中年男は返す。
そう言われると、
いやな気持ちはしない。
男はその言葉に甘えることにした。
「ありがとうございます」
そう言って
見送ってくれた中年男に対し、
今度は男の方が
お礼のお辞儀をしよう
と振り返ったが、
その瞬間に
中年男の姿はもう消えていた。
果たしてマボロシであったのだろうか。
男はいくぶん不思議に思ったが、
その左手にはきちんと
〖楽〗の字が書かれた面を抱えている。
「ただいま」
夕方に帰宅する。
そう言えば、
今日は休日だった。
息子である小さな男の子は
まだ出迎えるほどの年齢ではない。
男はおもむろに
面をとり出し、
小さな男の子の前で
自らの顔にかけて見せた。
男の子は、
はじめは少し
いぶかしげな表情を浮かべていたが、
直に色が明るくなり
よく笑うようであった。
その時に
男は、
「この子はこんなにも笑う子だったのか」
と思い、
小さな発見を得たようだった。
面自体はなんだかんだ言って、
その収まる所を探していた。
以前にかの中年男からもらった
〖心〗の箱の中に
すっぽり入る感じであったので、
男はその場所に
収納することにした。
夕食後、
男は自宅マンションの屋上へ
向かった。
夜の空は
きれいに澄み切っていて、
天の川の近くには
さそり座の姿が見える。
自分が子供の頃に、
よく天体観測をしていたのを
思い出した。
その時の父親は
とても優秀な人で、
息子の自分にも
やさしくしてくれた。
子供の頃に感じた
あの純粋な気持ちを
思い出させてくれた
あの中年男も、
どことなく
父親に似ているような気がする。
いまは自分自身が
父親の立場になって、
息子である男の子に
希望を与えられるような
人間になっているのかどうか。
少しだけ、
むずかしいような気持ちもしていた。
しかし、それは
もともとが
真面目すぎるきらいもあるのだ。
しばらくして
男は、
小さな男の子が眠っている
自室の方へ戻ることにした。
空には変わらず、
さそり座のかたちが
はっきりと
輝いているようである。
以上
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