日記7日目

重く濁った色をした雲が空をどこまでも埋め尽くしていて、霧のような細かい雨が遠くの森を白く隠していた。湿ったぬるい空気が部屋のそこら中にねばりついて、なんだか空の水槽に閉じ込められたような感覚だった。梅雨入りしたの、いつだっけ。今月の頭くらいだったか。スマートフォンの液晶には13:42の文字が表示されている。アルバイトまであと3時間18分ある。とりあえずご飯くらいは食べておこう。とは言っても、あまりお腹は空いていないのだけれど。
部屋の扉を開けるとすぐに、醤油とお出汁の甘くて香ばしい匂いがそっと鼻腔を通り抜けた。肉じゃが。絶対にそうだ、間違いない。リビングを抜けて台所に入ると、果して雪平鍋の中に、まだ湯気の立っている肉じゃががごろっと入っていた。僕が肉じゃがを美味しい食べ物だと認識し始めたのは、つい最近のことだ。昔から、別に嫌いな訳ではなかったのだけれど、肉じゃがが並ぶ食卓は僕を少し残念な気持ちにさせた。きっとじゃがいものホクッとした食感が苦手だったのだろう。けれど今は平気だ。少なくとも「残念」だとは思わない。特別何かがあった訳でもない。歳を重ねたせいだろう。
おかずが一品だけというのもなんだか寂しいので、納豆を1パック開けた。納豆は、昔から好きだ。

食事を終えて部屋に戻ると、湿度ががらっと変わるのが肌で感じられる。嫌なぬるさが厚い膜になって、ぺたぺたと腕や足に貼りついてくる。寝間着が少しだけ重くなる。髪の毛一本一本の間隔が狭くなる。細胞が溶けていくようだ。少しはやいが風呂にはいろう。
髪の毛をしゃくしゃくと洗っていると、けっこう伸びたなと思う。いつ切りに行こうか。いっそのこと伸ばし続けてしまおうか。耳がすっぽり隠れてしまうまで伸ばして、そうしたらパーマでもあてて、大人の色気とやらに挑んでみようか。
それってあと何ヶ月かかるのだろう。
納豆を食べたので、歯はいつにもまして入念に磨いた。人差し指で擦ると、キュッと高く鳴った。清潔になったな、などと、当たり前のことを嬉しく思ったりする。

風呂をあがってリビングに行くと、掛時計の針は3時前を差していた。家を出るまでにあと1時間半ほどある。その間にすることは髪の毛を整えることだけだった。はやく済ませて時間をもてあますのはなんとなく嫌なので、ツイッターを眺めたりユーチューブを観たりしながら、30分をすばやく流した。
髪の毛はほとんど乾いていたので、ドライヤーをさっと当てるだけで、頭全体がぱさっと軽くなった。
いよいよワックスの出番だ。僕は髪の毛をセットしている時間がとても好きだった。だいたいいつも同じセットだが、細かいデティールのわずかな違いで見方が全く違ってくる。それはもはや、「研究」に近い。
わずかにパーマがかかった髪の毛に、ワックスもしゃくしゃくと揉み込む。甘い香りが首から上をすっぽり包んだ。
ある程度馴染んだら、軽くトップを立たせて、ハチ周りを抑えて、アウトラインを整える。ほとんどテンプレート化した作業を慎重におわらせると、前髪だ。この前髪がこの頃の僕を困らせる。鼻にかかるほど伸びた前髪はどう分けても片眼が隠れてしまうし、分けなければ前が見えない。10分ほどかけてあれこれいじくり回すが、どうしてもしっくりこない。次第にいらいらし始める。この野郎、どうしてほしいんだ。切ってやろうか。こういう具合だ。
思い切って、ええい、とかき上げると、前だけさっぱりして、他はもっさりと重く、とてもバランスが悪くなった。
まてよ。
おでこの左半分の前髪をさっと耳にかけて、右半分はぐっと上げて目尻のあたりからがさがさっと下ろす。
アシンメトリーだ。
パーマもあいまってなかなかいいではないか。なんというか、大人の色気がほのかに感じられる。バランスを崩すことで生まれてくるバランスもあるのかと、妙に納得した。普段はしない髪型も新鮮で気に入った。
本日の研究結果に満足して、家を出る。瞬間、風がごうっと吹きつけて、大人の色気を、香りもろとも、奪い去っていった。

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