明晰夢にハマった結果アーティストになってしまった話
個展も会期残り4日となり、そろそろ作品に関する話だけではなく私の話もしようかと思っていたところ、今朝は久しぶりに明晰夢をみたので、今回は私の作品の統一テーマにもなっている夢の話をしようと思います。
そもそもの発端は、大好きな谷山浩子さんのご著書で浩子さんが夢日記をつけていた話を読んだことでした。
浩子さんの世界に憧れていた私は、あの独特の発想や詩情あふれる世界にもっともっと近づきたくて、大学の4年間、毎日欠かさず夢日記をつけることにしたのでした。
夢日記を作成する方法は、はじめのうちは少し根気がいるのですが、慣れれば簡単です。
夜寝る前に、枕元にすぐ書けるペンとメモ用紙を用意しておき、朝起きたらすぐに間髪入れず夢で見たキーワードを殴り書きしてゆきます。
その走り書きメモを朝食前に眺めながら5分くらいで夢のあらすじを同じメモに少しわかりやすく書き起こし、先のメモと一緒に夢日記ノートに貼り付けます。
それを一日持ち歩いて、ことあるごとに思い出したら細かいディティールを書き添え、一日の終わりまでに夢の詳細にまでふれたストーリー仕立てにして日記としてまとめる。
これを一日も欠かさず、四年近く続けました。
夢日記とは不思議なもので、最初は起き抜けに夢を思い出そうとしてもなかなか細部までは思い出せないのに、習慣づけをして慣れてくると走り書きのメモすらなくても夢自体が隅々まで思い出せるようになり、細部まではっきり見渡せるようになってくるのです。
それはとても不思議な感覚で、ただの記録というよりだんだんと夢自体の操縦が可能になったような感覚になっていきました。
初めは大好きな谷山浩子さんへの憧れや、純粋な好奇心からつけ始めた夢日記でしたが、段々と夢自体が楽しくなってきた私には、夢日記をつけなくてはならないという義務感はもうなくなって、すっかり夢日記に夢中になり、手放せない習慣になっていったのでした。
けれど年々夢日記に慣れて夢自体がはっきりしていくと同時に、困った事態も起こり始めます。
一日中夢に関することを思い出したりするくせをつけてしまったがため、夢の余韻が目覚めていても消えません。
夢の感触がまざまざと残ったままで生活しているので、夢と現実の境目がどんどん曖昧になってゆきました。
さらに、3年目をこすあたりで、私はいわゆる明晰夢を見るようになってゆきました。
明晰夢とは、自分が夢を見ていることを自覚しながら見る夢のことで、私は夢を見ながらそれが夢であることを把握していて、把握しているからこそ夢の中での世界をある程度コントロールできるようになっていったのでした。
空からりんごを降らせたり、海の中に巨大な水晶の塔を突然出現させたり、毎晩私は自分が見たいと思ったことを夢の中でなら再現できるようになってゆき、同時にひとつのひそやかな秘密を持つ気分に浸るようになりました。
それは、
「夢の中でなら、何でも思い通りなのだから、私の居場所はこの現実世界ではなく夢の中なのだ」
という誰にも言えない甘美で背徳的な秘密でした。
当時の私が現実に激しく不満足だったわけではなく、学友たちと勉学に励みつつ充実したキャンパスライフを送ったり、ディズニーランドのバイトに精を出したり、それなりに楽しいことはたくさんあったのですが、当然若者らしい悩みや鬱屈や不安それなりにあったので、どんなに楽しいことがあっても心の奥底にそれは常に潜んでいました。
「私には、思い通りになれる場所がある」
という、若き日の私の若者らしいフラストレーションを発散する逃げ場になっていった夢は、その後さらに歪な進化を遂げてしまいます。
明晰夢に耽溺し始めて一年くらいが経って、夢と現実が混ざり始めたのです。
夢のディティールが細部まではっきりしすぎていて、だんだん現実の景色と遜色なく、いえそれどころか、現実より鮮やかな存在として日中も常に私の中に存在するようになり、夢の中の自由で美しい光景は本来現実にもあって然るべきなのに、なぜ存在しないのだろう、とまで感じるようになっていった頃、家族や親友が私の異変に気づきはじめました。
夢の中にしか存在しない同級生があたかも現実に存在しているかのような勘違いで、現実には存在しない同級生(耳が3つある小杉くん)の話を普通に親友にしてしまい、それは誰のこと??そんな人、この学年にいないよね?と訝しまれたり、習ったこともないチベット語の上級講座をいきなり履修し始めようとしてゼミ仲間に止められたり、家族に、夢の中では定番の待ち合わせスポット、新宿伊勢丹の隣の青い大聖堂の中で待ち合わせをしようとしてそんな場所はないといわれたり。
怪しい行動が増え、現実がおぼつかなくなり、心配され、それでも私は夢を手放したくなかったのですが、幸運なことにタイムリミットで夢を手放すときが来ました。
就職です。
そういうところが昔から小心者というか変に生真面目なのですが、就職をするにあたってこのまま現実との齟齬があっては仕事にならない、仕事をするからにはこのままではいけないのだと悟った私は、夢日記をすべて燃やし、きっぱりと甘美なる夢の世界に別れを告げることにしました。
その後私は実家のツテで某神社に就職し、そこでもまた一般社会とは少し違う生活を送ることになったのですが、それはかえって夢に耽溺しすぎた私の、社会復帰への良いリハビリだったかもしれません。
規則正しく規律に守られた生活。
伝統芸能に師事し、故事を守って厳密に暮らす生活の中、ゆっくりと私は夢の世界を手放して、現実に戻ってきた気がします。
それでもなお、あの万能感、美しく気高く全てにおいて満たされた世界、夢の方こそが実は現実で、こちら側に戻ってきた私は、かりそめの姿なのではないかという甘やかな疑念はあれから20年以上たった今でさえ、私の中に残っています。
私が作る作品にはすべて統一のテーマがあり、それは「明け方の夢で見たような気のする光景」です。
夢日記を手放し、夢の操縦桿は失われ、夢の輪郭すらおぼろげになった今も、明け方にひどく美しい夢を見たような気分で目覚めることがあります。
夢とは、誰もが持てる幻想の時間であり、同時に誰とも共有することができない個人的な幻想です。
誰とも交われない幻想たる夢であるならば、人はどこへでも行けるし見たいものを見ることができます。
細部に至るまでのはっきりした把握がなかったとしても、夢を見ることで日々の生活の中の不安や悩みを少しの間癒やすこともできるかもしれません。
今は現実を生きている私がそれでも焦がれてやまない、あの夢の世界に戻りたいと思う気持ち。
そして、次に戻ってしまえばもう二度と現実に帰ってくることはないだろうという仄暗い予感。
そんなことを作品を作ることでどうにか私は昇華し、夢の世界に再び舞い戻ることをこらえているというのが本当のところなのです。
そういう意味では、作品を作ることを仕事にできたのは幸運なことで、むしろそうせざるを得ない道筋だったのかもしれないとすら、今は感じています。
一人の女性として、姉として娘として、また妻として母としての私を気に入っていないわけではありません。
日々の生活は幸せなものではありますが、きっとその幸せの維持をするための地味な努力や忍耐は、私には「ここではないあの世界」があるのだという思いに支えられている部分も大きい気がします。
現実を生き抜くのに逃げ場は大切ですね。
ただ私に限っては、未だに「ほんとうは、あちらの世界こそが現実なのではないか」という思いを常に抱えていいる羽目になってはいるので、夢日記を継続して細かにつけることは、決しておすすめいたしません。
戻ってこれなくなりますよ。
………………………
9月は中野ブロードウェイと東林間の2箇所で28日まで展示をしています。
よかったら夢の世界の片鱗を見にいらしてくださいね。