【自動書記】無題

書くときの無題性というのは。スマホで打っている時は、書き直せるが、おそらく一回文章にしたものは書き直さない。そういうことにしよう。とにかく書くことのハードルを下げる。極限まで高まったハードルをどんどん下げていく。読み手のことなんて気にしない。もちろん気になるが。書くとき。書き始めるときに、何を書こうか。結局、書くこと、書けないことについて、書いてしまう。それがもっとも、リアリティがあることだから。今やっていることだから。書きやすいのだろう。そして、ある程度筆が乗ってきたら?別の話題になっていく。なんやかんやフリーライティング日記?も2週間くらいやっているらしい。我ながら続いている方ではないか。これは書くことのリハビリみたいのものだ。とにかく書く。文章をコントロールしようとしない。とにかく書く。何やってるのか自分でもわからない。とにかく何かが出てくることを信じて書く。これは信仰だ。思考に対する冒涜だ。文字とは手段ではなく、思考そのものだ。書くことは、立体的な思考を二元的な文章で描くことなのだ。自分でも何いってるのかよくわからない。上にスクロールしようとするな。どうしても気になってしまう。いや、書けなくなる。自分とはなんだろうか。コミュニケーションを考えていくと、この問題に着く。演技性の問題。ほんとうの自己。ほんとうの自己を演出する、作為する、演技するという、自己撞着。コミュ障とは自己の演技に敏感であることだ。それは、…。感じるべきことと感じていることの差。ここに罪の意識が出てくる。あるいは作為の不自然さに耐えられない。周囲の期待には応えられない。あるいは感じるべきことを感じるべくマネジメントされた感情。これには嘘の意識が出てくる。これは他者といる技法の4章を読んで知ったことだ。私の考えではない。自分で考えるとは何か。わからない。まず前提として、言葉とは他者だ。私のものではない。私が作ったものではない。すでに、あったものだ。言葉ではなく言語の方が適切?眠い。終わり。

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