【自動書記】哲学病とコミュ障

書き始めに悩み始めてしまった。こう書いているのも少し時間が経っている。さっさと書き始めればいいものの、少し書き始めを思い悩んでしまうのだ。それでもフリーライティングなのか。まぁ、そんなに思い悩まなくてもいいのだと思う。フリーライティングも、お題、テーマ、方向性をある程度決めた上で書き始めてもいいのだろう。というか、ある程度、習慣化すると何書こうかなと考えてしまう。しょうがない。だから、別に出だしで悩むのはしょうがない。といっているうちに、書くことはない。書くことはない。書くことはない。なるべく手は止めないようにしたい。したいのか、すべきなのか。あー。さっきいい考えが浮かんだのに、忘れてしまった。うーん。なるべく手は止めないようにする。なるべく、書き直さないようにする。それが大事。最近は大学もなく、休みで自由だ。とくに悩んでいることはない。いや、将来のことを考え始めたら悩みしかないのだが。働きたくない。直近の悩みといえば、コミュニケーションだろうか。直近というか、永遠の悩みだが。コミュ障とは何か。これはずっと考えている。そもそもわたしはコミュ障なのか。おそらく、相対的なものに過ぎないのだろう。誰かにとっては誰かはコミュ障に思える。そんな感じだ。コミュ障とは哲学病と似たようなものではないかと少し思ってしまった。それは、日頃何気なくやっている行為、コミュニケーションが、何かひどくわからなくなってしまう経験だ。何だこれは。わたしは今までどうやってコミュニケーションをしてきたのか。わからなくなる。コミュ障とは、自分の演技性に意識的な状態であると、ひとまず言える。これは帰ってきたロシュフコーさんの動画で言われてたことだ。コミュ障は、えっと、本当の自分と偽物の自分という二項対立で考えるときに生じるのではないかと、少し思っていたが。なんか違う気がする。コミュ障とは、空気が読めすぎる人なのだ。読めすぎてしまって何もできなくなる。コミュ障とは、自分が何をしたいのかわからなくなる。自分は何が言いたいのか。演技とは何か。このあたりが、コミュ障を解く鍵になるそう。演技とは印象管理?それは自他含めた印象管理。面子を守るための。うーん。このまま続けていいのか。少し話題を変える。また本を買ってしまった。おそらく積まれる。絶版の本を見つけたら買ってしまいたくなる。いまは、他者といる技法を読んでいる。主に。レイン。ゴフマン。誰だっけか。忘れた。現象学的社会学の人。に興味が湧いた。著者の奥村隆さんの問題意識。本コミュニケーションとも共通。それは、分かりすぎることの苦痛である。わかられるすぎることの苦痛である。私たちは他者を理解すること、それは無条件に肯定されることだと思っている。わたしもそう思ってた。しかし、奥村隆はそうではないと言う。理解することはコミュニケーションのうちの一技法に過ぎない。それを、何にでも当てはめようとすると無理が出る。私はこの本を全然理解できていない。疲れた。終わり。

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