『鎌倉殿の13人』真の主人公は骸骨
年末は忙しかったと言いつつ、実はお知り合いが開催した鎌倉のオンライン会にも出席。そこからまた、鎌倉殿の13人とはいったいなんだったのかという妄想に取り憑かれて、けっこうずっと考え込んでいた。
会では、「これはけっこうサラリーマンドラマですよね。殺し合いばっかりしているから気づきにくいけど」という話で、鎌倉殿で行われている心理劇のスケールを矮小化すると、意外と身近な話に落ち着きますよねと。これは一定の賛意を得られた。逆に半沢直樹のほうがファンタジーだよなあ。
で、ひとつショックだったのが、鎌倉は家族のドラマである、と頭ではわかっていたものの、やっぱり自分には落ちてきていなかったんだなと。というのも、なんで小四郎は政子が尼将軍になったときに政敵として殺さなかったのかなという疑問を持っていて、それを話したんだけど、それに対しての答えは「だってこしろうが仕えていたのが政子であって、こしろうは誰かの僕としてしか生きていけないわけで」みたいな話があり、そこからまあ、ある意味家族の話だよなというところにもつながるんだけど、僕はそこらへんがまったく見えていなかった。家族の話だって理解していたら、パッとわかったはずだったのに。俺はいったい何を見てきたのだ、という話でもあって、やっぱり読解力が根本的に欠けているんだろうなと。
ていうかもっというと、鎌倉殿を家族の物語としてみたくないという気持ちをずっと持っている疑いがあるんすよね。いや、家族のお話です、と考えるとすべてにスジが通って、素晴らしい建築物が目の前に現れるから、絶対にそうなんだよ。
でも、そこが終着駅だったら、鎌倉殿は人間のドラマだったのか。いや、なんか人間ドラマじゃないってことにしてください! みたいに強引に思ってしまっているんだよなあ。もっと得体の知れない何かがいたんじゃないかって思いたい。のだが、やっぱり家族が正解。
というわけで、どうしても人間ドラマにしたくない僕はいろいろと頭をひねって、鎌倉殿の主人公は、あのちっちゃい阿弥陀如来像であり、ドクロであるとした。もっともそれらは、とあるものの象徴というか、仮の姿というかなのだ。
そのとあるものってのはつまり、鎌倉殿という「権力」なのだ。
鎌倉殿の13人の真の主人公は、権力だ。形もなく目にも見えず、誰の心にも語りかけ、そして放さない、悪魔が主人公なのだ。
鎌倉殿の13人は、権力という主人公に魅入られ破壊され、殺されていった人々の、形を変えたホラー話なのだ。だって悪いやつだれもいなかったじゃん。
その権力は、頼朝の髪の中に阿弥陀如来として潜みながら鎌倉にやってきて、やがてドクロという伴侶を得て、「鎌倉殿」という形で産声を上げた。
ゆえに、最後の最後で、政子は自分の弟を殺すことで、権力に一矢報いたのだ。権力に殺される前に、こっちからやってやるのだ。
あれ? それってだから、じゃあ一周回って家族の話じゃん。
みたいな。まあいいや。
いや、「家族」という人間の最小単位の話ではあったんだけど、なんか、このドラマには人肌以外のなにかが潜んでいる気がして、それがなんだったんだろうなあと。逆にそこにとらわれて、他の人に教えてもらうまでこしろうのことがわからなかったりもしてしまい。ホントにありがとうございます。
あと、ちょっと気がついたのは、鎌倉殿ってこしろうが主人公なんだけど、実を言うといちばんツマランキャラクターなんすよねこしろうって。ほかの、殺されていった人たちそれぞれが、実は主人公らしいというか魅力的で、こしろうが魅力的であったことは、初期少し可愛げがあった程度で。千葉、新田、畠山、和田とかは死に、生き延びたのはこしろうと大江どのというわけで、つまらん能吏が生き延びて、英雄はことごとくいなくなった……。創業物語ではよくある話で、徳川でも明治でも、後世語られるのはそんなラインですよねと。ただこれって裏を返せば僕ら凡人に希望を与えてくれる話でもあるんだよな。だって、英雄にはなれないけど、能吏……とまではいかなくても、そこそこ真面目にやっていれば社会に居場所があって生き延びられるって解釈もできるわけで。もっといえば、現実を無視した畠山や和田は滅んで、現実に押しつぶされた新田もいなくなった。リアリストであったこしろうと大江どのは生き残ったってことでもあるんじゃないのかな。
というわけで、先日はとっても有意義なお話ができて、そこからさらに、自分なりにいろいろ考えられました。ありがとうございます。
で、家康はいいとして、紫式部はチャンバラあんのかなあ。それがしんぱい。
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