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私立公立多様性の話と3歳の子が亡くなった件について「ケーキの切れない非行少年たち」と「教育格差」を読んで考えた雑記

こう書いてから10日以上経ってしまった。
当初はすぐまとまりそうと思ってたけれどなかなかまとまらない。
まとまらなくなったのは、元々は私立公立多様性の話と3歳の子が亡くなった件と「ケーキの切れない~」の話として書こうと思ってたのが、ちょうど「教育格差」を読み終えたところだったので、そのことも入れたくなったから。入れないとまとまりがよかったんだけど、「教育格差」の視点がとても興味深かったので入れてみる。

発端は、「小学校受験はしないことにしたのだけど、私立や国立に行かない理由は、やはり私立国立の子どもは似たような恵まれている家庭の子が多くそれを当たり前だと思ってほしくなくて、多種多様な家庭環境の子どもと過ごしてほしいから」というツイートを見かけたこと。
わたしはわりと似たようなこと思ってたんだけど、このツイートは炎上気味だった。
どうも、多種多様な家庭環境の子どもと過ごしてほしいっていうのを経済的に恵まれた家庭の子がそうでない家庭の子と過ごすことで(経済的に恵まれた家庭の)子の人生のプラスになるだとかうちは恵まれてることを感じてほしいとかいう意味に捉えて、「貧困家庭は決して誰かの人生経験の足しや選択肢を広げる手段ではありません」というように不快に思った人がいるようだった。
そう思う人がいることは驚きだった。わたしとしては、国立私立小学校というのは世の1%程度の家庭の子が通うとても特殊な環境のところで、6歳からそこで育つと世の中一般とは違う世界がその子の中の「ふつう」になって、世に貧困家庭が存在することすら気付かず、存在を知らないから貧困家庭に手を差し伸べるという発想に至らなくなりうる、ということだと思っていた。別に人生経験の足しとか選択肢を広げる手段として考えてるわけじゃなく、存在すら気付いてなかったら貧困家庭を将来的に助けてくれるような人になりえないという意味で捉えていた。
でも、かなりの人が先のツイートに否定的だったので、よそはよそ、うちはうち、で、経済的に恵まれた家庭はそうでない家庭とは関わらないようにしたくてそうでない家庭も見世物じゃないって発想で助けてもらうって認識はあまりないように思った。
なんでこんな冷たい世の中になったんだろう…

そんな風に思っていたところで、3歳の女の子が8日間放置されて亡くなったニュースが流れてきた。その報道を見て、頭に浮かんだのは昨年末に読んだ「ケーキの切れない非行少年たち」だったので、こんなツイートをした。

ニュースで母親の生い立ちなどが報道されて、やるせない気持ちになった。幼い頃から子どもを産んだ後までずっと、もっともっと社会的に支援されるべき人だったんだと思う。
このニュースを見てから「ケーキの切れない~」を読み直した。こんな記載があった。

世の中には「どうしてそんな馬鹿なことをしたのか」と思わざるを得ないような事件が多いですが、そこにも”後先を考える力の弱さ”が出ているのです。非行少年たちの中にも、見通しを持って計画を立てる力が弱く、安易な非行を行ってしまう少年が多くみられました。(38ページ)

もしかしたらその事件に関するわたしの考えは全く当たっていないかもしれないけれど、それでも、もっと社会全体で長期的な支援があったらこんなことにはならなかったと思っている。そして、これは私立公立多様性の話にもつながることなんじゃないかと思う。

決して、貧困家庭だとか勉強ができない子だとかと比べてうちは恵まれているとかいう見世物ではなくて、いろんな家庭や子の存在を知った上で世の中をよくするにはどうしたらいいか考えていく、助け合っていく、そういうことだと思っている。
現に、公立小学校に通う我が子はそんな感じで育っていると思う。貧困のことはよくわからないけど、学習面でいえばクラスに5人ほど通級の子がいるそうだけど我が子はそれも個性として受け入れてるようだし、受け入れながら、みんなで社会を底上げをするにはどうしたらいいか考えられる子になってほしい。

ここまでの考えはまとまっていたんだけど、松岡亮二先生の「教育格差」を読み終えて、またちょっと違った視点が入ったので追加。

「教育格差」は、両親共短大卒以上、一方が短大卒以上、両親共短大未満、での子どもの教育関係のいろいろな差について平成13年生まれの大規模調査など実際のデータに基づいて考察した非常に読み応えのある本で、幼児教育、小学校、中学校、高校と章立てされているが、高校の章、今までまったく考えたことのない視点でとても興味深かった。

わたしは小学校に関しては多様性を学ぶのが重要だと思っているけれど、小学校でそれを知った上であれば、同じような学力層が集まる私立中に進学したり家庭の教育方針に合わせた私立中に進学したりするのは別にいいんじゃないかと考えていた。
わたし自身は田舎の出身で私立中など存在せず公立中出身だけど、高校では学力で進学先が分かれるのだからそれが中学からになっても別に違和感はないと思っていた。

でも、「教育格差」によれば、学力で進学先高校が分かれるのは世界的には異色な制度らしい。高校入試で学力による生徒の分離を行うことに疑問を感じたことがなかったので衝撃的だった。

大学への進学ありきで塾通いもするのが「ふつう」の高校と家では一切勉強せずアルバイトに精を出すのが「ふつう」の高校とでは学習時間に大きな差があり、高校入試での階層分けがまた格差を生むというようなことが書いてあった。
進学校とそうでない高校で差が出るのは当たり前だと思っていたけど、それがまた格差を生むというのは考えたことがなかった。
確かに、高校は自身のその後(大学以降)の階層やその次の世代の階層に影響すると感じるので、高校入試での選別による階層の分断というのは高等教育の入口という意味では合理的だけど社会全体の底上げとして考えるとよいことばかりではないのかもしれないと思った。

うまくまとめられなかったけど、多様性の問題はこれからもいろいろ読んで考えていきたい。