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言語化≠思考披露
三省堂の辞書編集者が選ぶ2024年の新語の大賞が「言語化」だそうだ。
大賞 言語化
漠然と抱いた意識や思考、いわく言い難い欲求や感情を、できる限り正確に言葉にして表すこと。「盛り上がった気持ちを言語化する」
少し前に、ネットでよく見かける「好きを言語化する技術」という本に興味を持ち本屋で手に取ったのだが、これはわたしには合わないと判断して購入を見送った。上に引用した記事でも紹介されているし、昨今の言語化ブームの象徴といえるような本だと思うが、手にとってパラパラと目次や見出しなどを見てこれはわたしが求めているものではないと思いそっと閉じて本屋を後にした。
後からネットで調べたところ、この本の著者の著書にバズる文章教室というサブタイトルのものもあると知り、求めているものではないと感じた理由はまさにそれだと思った。
誰のための、何のための言語化なのか。
わたしは自分のための、自分が後で振り返るための言語化の手がかりを求めているのであって、人に伝えたいとかバズらせたいとかいうのとは最も遠いところでの言語化を目指している。noteに書くものは多少丁寧に仕上げているが、基本的には自分の今の気持ちを自分の今の言葉でありのままに綴りたいと思っていて、この気持ちを誰かに伝えたいとかいう類のものではない。共感してもらえたらもちろん嬉しいがそれは副産物にすぎない。
流行りの推し活というものを考えてみると、推しに夢中になり語彙をなくしてヤバいとか尊いとかしか言えなくなる幸せそうな姿を見ているとまわりも幸せになれる、それが推し活の良さだと思う。それなのに、みんなにも推しを好きになってほしいから言葉の限りを尽くして伝えたいというのが昨今の言語化ブームの動機だとすると・・・違和感がある。そのまま好きでいてくれる姿を見ていればこちらも幸せなのに、それを他人のために言語化してくるのは正直鬱陶しいし、好みは人それぞれだから押し付けないで、とさえ思う。
結局、新語大賞を取った言語化というのは言語化というよりも公開化、思考披露のことなんだと思う。コミュニケーションに主眼があるし、それをネットの大海原に流すのが前提なら承認欲求にもつながっている。しかし言語化というのは本来的には単なる言語化であって、思考披露とは違う。わたしがやりたいのは本当にただの言語化。今の自分のありのままの気持ちをありのまま言葉で残して振り返れるようにしたいだけ。一方で、世の中で流行っているのは思考披露のための言語化であり、思考披露によってみな疲労していく。披露に疲労を重ねた結果、2024年Twitter(X)はついに崩壊し、みなSNSから散っていくのであった。
疲労につながるものを言語化とは呼ばない。本来の言語化は疲労しない。言語化は生活を豊かにするものであってほしい。
[追記]
冒頭で挙げた本のAmazonのレビューにすごく共感できるものがあった。タイトルが合ってない。
タイトルが「推し活をしつつ他者とより楽しく生きるための本」なら納得ですが、求めているものと違いました。
ちなみに同じ著者の「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」も本屋でパラパラめくってみて、タイトルから想像していたものと中身が違っていると感じたので読むのを見送った。科学的なタイトルをつけておきながら、労働と読書の歴史を語るとは・・・狙ってそうしているのかもしれないが、タイトルと中身の合わなさは言語化を売りにする者としては致命的なミスでは。