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執着の話

昔から、生にあまり執着のない子供だった。

 殺すぞと怒鳴られても、私が死んだら保険金はいくらくらい降りるのかな、などと呑気に考えてしまう性質は一般的にあまり好ましくはないのだろうが、そう悪いことばかりでもないと思う。

 例えば、私は中学受験を経験しているのだが、受験に失敗したら死ぬつもりだったことが功を奏してプレッシャーに負けることなく乗り切ることができた。通っていた公立小学校には自分の居場所が殆どなかったため、公立中学校に進学するくらいなら文字通り死んだ方がマシだという考えだった。どうしようもなくなれば死ねばいっかな、というのは、内定を貰えなかった学生が留年を選ぶ程度の選択肢でしかない。

 私にとって、死という逃げ道が残されていることは救いだ。その理論は今も変わることがない。ただ、以前よりかは視野が広まったために、ホームに飛び込むと平均的にどれほどの損害を生むかとか、建物から飛び降りるとどれほどの迷惑をかけるかとか、首を吊れば住んでいるマンション全体が事故物件扱いになってしまうなとか、様々な事情を考慮するようになった。
 だから、もう突発的に死のうとすることは無いと思う。死ぬときは完全自殺マニュアルでも読みこんで計画的におこなうつもりだ。多分。


昔から、外見に異常な執着をもつ子供だった。

 幼稚園児~小学生特有のノリもあるのだろう、同級生などから外見を揶揄され続けて育った私は、物心つく前から自身の顔が大嫌いだった。
そんな私は、気になったことをとことん突き詰める性格が裏目に出てしまい、小学5年生あたりからあらゆる奇行に走ることになる。
※以降、読む方によってはトラウマを想起させる可能性があります。

 あるときは親のクレジットカードを擦って瞼に二重幅を作ろうとし、皮膚を真っ赤に腫らした。あるときは鼻を洗濯ばさみでペンチ並の力を込めて挟み続け、骨の発育を歪めた。あるときは顔面をタコ殴りにして、どこぞの井戸から出てきそうな痣だらけの顔で登校した。
因みに、元々やんちゃな性格をしていたので友達と喧嘩したとか転んだとか言い訳をすれば大抵の教師はそれで引き下がってくれた。
 とにかく自分の素顔を見せたくなくて、親の化粧品をくすねて適当に塗ったくることで隠さなければ一歩も外に出られなくなった。

 更に小学6年生になり、比較的発育の早かった私は、今度は体型を揶揄されるようになった。
 お前がそんなに情けない豆腐メンタルだとは思っていなかった。とは今でもよく言われるが、実際のところ私のメンタルは元からプレパラートのカバーガラス並に脆く、悪気のない大人の言動も全て真に受けては勝手に壊れていった。

 私は中学校に進学して間もなく、体重を25kg程度まで落とした。標準体重は54kg程度の身長だった。これに関しては完全に自身の脆弱性が引き起こしたことだと思っているが、その影響で私は中学1年生の初頭から中学3年生の前半くらいまでの記憶を失っている。(故に25kgというのも、伝聞情報やフォトに残された体重計の写真を基に推測した数値であるが、今はその値を自身の最低体重と仮定する)

 どうしてそのような状態から通常の範囲にまで戻ったのかは一旦置いておくとして、あらゆる栄養が不足した私は徐々に錯乱し、当初の目的を見失っていった。脳が萎縮したせいか、言動や趣向は幼稚園児じみたものに退行し、球体関節人形の画像を集めては人間になりたくないと泣いていたらしい。栄養失調で幼児退行とは、なかなか興味深い事象だと思う。
 フォトに残っていた自身の惨状については敢えて触れないでおくが、アルバムに保存された人形の写真は流石に気味が悪くなって全て削除した。

 今の私は、当時の私に寄り添ってあげることはできない。というか、先程から綴っていること全てがどことなく他人事だ。きっと今の私はあの子が一番なりたくなかった大人に近い存在だろうから、そんな未来が待っていると知ったら彼女は首でも吊ってしまうだろうなと思う。

 精神疾患から立ち直った経験を活かしてカウンセラーになりました。
みたいな人間は後を絶たないが、結局のところ彼らの殆どが患者を「患者」として腫れもの扱いしているようで、いまいちしっくり来ないというのはそういった所以なのだろう。喉元過ぎればなんとやらとはよく言ったもので、乗り越えてしまった人間が苦しんでいた頃の自分と分かり合うことは土台無理な話なのだと思う。それは常識的に考えると「いいこと」なのだろうけど。

 因みに、後に調べてみたところ、当時の自分は摂食障害として入院を推奨される体重を軽く10kgは下回っていた。
が、伝聞情報によると私は摂食障害として入院することも療養生活を送ることもなく、学校に通い続けていたらしい。連れていこうとすると全身全霊で拒否をしたからいつしか諦められたそうだが(その節は多方面に大変ご迷惑をおかけしました)、それでも人目のつく場所で倒れたりすることは一度もなかったということだ。
生命力ゴキブリか?ゴキまろぅに改名したろか?


……と、ここで私は当たり前のことに気づいた。
 感情面での生への執着は、理性的なコントロールの及ばない範囲――自らの身体 が生に執着する程度の強さとあまり相関関係を持たないらしい。私の場合はどれだけ自身を痛めつけてもしぶとく生き残ってしまった訳だが、その逆の人も数え切れないほどいるのだろう。
 地球上では1秒間に約1.8人が亡くなっており、私が今この駄文を連ねている間にも既に幾つもの命がこの世から消えている。
 私はこの事実を受けて、限りある命に感謝して大切に生きよう。そう思い直せるほど、私はできた人間ではなかった。

 まぁでも、今までに応募した短歌賞の結果が全て発表されるまでは生きてみようかな、とは思う。私は現在、毎月1つ以上のペースでコンスタントにどこかしらの賞へ応募し続けているから、このまま行けば半永久機関の完成だ。笑い。
 それくらい、今の私は適当に生きている。

 この世に生を受けた理由を見出して、或いは模索して、日々を懸命に生きている方は立派だと思う。私とよく関わりのある歌人さんなんかは、それこそ人生の意味や自身の生きた証を形にするために詩を詠んだり、創作に打ち込んだりしている方も多いのではないかと。
 けれど、そんな大層なものはなくてもいいのではないかとも思う。無駄なプライドや自意識は人を不幸にするだけだ、というのは、「自身の経験」という母数1でしかない極狭データに基づいた偏見まみれの持論である。
    人生は暇つぶしだとはよく言ったものだが、実際のところ暇つぶし以下くらいのマインドでいた方が何かと幸福度の高い人生を送れるということは想像に難くないだろう。多分。

    かなり文章が散漫としてきてしまったので、そろそろお開きにしようと思う。
言い残したこと……なんだろう、みんなてきとーに生きよう?みたいな?
……最後に良さげなこと言おうとして滑りました。そういえば2月下旬現在、急に冷え込んできましたね(都内某所)。ごめんなさい。そろそろ本当にお叱りの声が飛んできそうなので打ち切りとします。



 長ったらしい駄文Part2にお付き合いいただいた方、もしいらっしゃいましたら心より感謝申し上げます。
いい感じに息抜きできたので数学でも履修してくるとしましょうか。では。

しがないトカゲ

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