お題:話す言語で性格変わる?
先日フィンランドに留学されている方のnote記事を拝見しました。
記事の内容としては表題の通り、話す言語によって自分の性格が変わっているような感覚について書かれています。
これ本当にその通りだと思います。自分にも当てはまります。
この感覚はとても面白いと思います。しかし共感してもらうには他言語を話せることが前提条件となってしまうのが難点。
言語の違いによって性格が変わるというのは一体どういうことなのか。
他言語を話さない人が疑似的にでも想像がしやすくなるような話を今回してみたいと思います。
例えば、みなさんが旅行や出張に行くとします。
その後家に帰ってきた時こう思いませんか?
「やっぱり自分の家が一番落ち着くな」
この現象を他言語でどのように表現するのか見てみましょう。
英語
表現方法はいろいろありそうですが、このあたりが王道でしょうか?
There's no place like home.
Home sweet home.
East or west, home is best.
(直訳)
我が家のような場所は(他には)無い
楽しき我が家
どこに行っても家が一番※
1番目は「家よりいい場所どころか、家と同格の場所すら存在しない!」という印象を受けました。
また個人的には3番目が好きです。どこに行こうが最後に帰ってくる場所としての意味が感じられます。
スウェーデン語
ではフィンランドのもう一つの公用語、スウェーデン語はどうでしょうか。
訳すと「他もいいけど、家が一番」です。
他のところもちゃんと褒めてるのがポイントでしょうか。
フィンランド語
フィンランド語では2つ紹介します。まずは一般的とも言えるこちらから。
直訳すると「自国は苺、他国はブルーベリー」です。
いきなりテイストが変わったのがお分かりいただけるでしょうか。
なお他の表現として「自分の家は苺、他の場所はブルーベリー」とも言えます。国ではなく家や場所、または土地とするケースです。
「苺の方が良くて、ブルーベリーは劣っているということ?」
この言い回しを見た時みなさんはこう感じたかもしれません。
もちろん現代ではそのように使われています。
でもこの言葉は元々そういった意味で生まれたわけではありません。
フィンランドの焼畑農業(Kaskiviljely)から由来しています。
焼畑農業時代、森を燃やした後に出来た場で収穫できる苺(Metsämansikka)は貴重な食糧または収入源だったとされています。
一方で焼畑をしなかった森ではブルーベリーが夏に実をつけ始めます。
ブルーベリーを摘んだことがある人はご存じでしょうが、フィンランドの森ではブルーベリーが場所を問わず群生していることが多いです。
「焼畑をした自分たちの土地では苺が、他の土地ではブルーベリーが生る」という状況からこの言葉が生まれました。
とはいえ現代の苺はとても美味しいので、ブルーベリーより苺の方が好きと言う人は多い印象です。現代版の意味はあながち間違ってはいないのかも。
美味しいブルーベリーは森に行けば採取できるのに対し、美味しい苺はその辺の森では見つかりません。お店で買う必要があるでしょう。
ちなみに自国の経済状況など、あまりうまくいってない時は皮肉をこめて逆にいう場合もあります。「自国はブルーベリー、他国は苺」
それではもう一つの表現方法にいってみましょう。先ほどのは一般的に言われるもので、こちらはどちらかというと少し古い言い方でしょうか。
直訳すると「我が家は金の高価さ」です。
価値があるものを金に例えるのはよくあることなので想像しやすいですね。
ちなみにフィンランドでは森のことも「緑の金(Vihreä kulta)」と呼んでいます。紙や木製製品の材料となる木が育つ森はお金を生み価値があるとされています。森が多い国ならではの発想でしょうか。
なおフィンランドでは森を投資先として選ぶ人も珍しくありません。
森に投資するのはカナダなどでもあるようです。
フィンランド語版の説明が多くちょっと偏ってしまいました。
ただそれだけ英語や日本語とはまた違う言語だなと感じてもらえればと思い色々補足しました。
言葉とは?
同じ意味でも表現方法が言語によって変わるのは面白いですよね。
先ほどの例で、言語はそれぞれ少し違うんだなと思われたかもしれません。
それでは、これらの言葉をみなさんご自身が話していると想像してみてください。"話しているあなた"も印象が変わるかもしれません。
また言語のスキルによっては思うように自己表現できないこともあります。
それにより会話中に出てくる性格が限定されたりすることもあると思います。
では言語スキルが上がりその国の滞在年数も増え、話すことにも慣れたらどうでしょう?自分の話したいことを自由に表現できるようになったら、日本語を話すときと同じ人格だと感じられるでしょうか。
個人的な感想になりますが答えはNOだと私は思っています。
言語の成り立ちはそれぞれ異なり、また言葉の表現方法にはその国特有の文化が含まれていると自分は感じています。
外国語を話している時はその国の要素が少しだけ溶け込んでいるような感覚です。事と次第によっては化学反応のようなものが起きるかもしれません。
そのため外国語を話す自分が本当の自分なのかと問われると難しい質問です。はっきりとは答えられないでしょう。
そう考えると母国語と言うのは自身のアイデンティティにも繋がる特別な言語なのかもしれませんね。
おまけ
自分が外国語を話すとき、どんな性格になると感じるか。
英語
仕事の時くらいしか話さないのでオフィシャルな性格になると思います。
むしろ仕事してる感じになる。
スウェーデン語
スウェーデン人と話す時は英語のため、話す必要が全く感じられない言語。
ただフィンランド人をからかう時や、ふざけたい時にはわりと使えます。
フィンランド語
親父ギャグを言って人に絡むようになります。
優しい人は笑ってくれるけど、そうでもないと冷たい態度を取られがち。
冷たい態度もフィンランドっぽくてよい。
あと方言が好きすぎて、方言を話す人にはめちゃくちゃ甘くなります。
セールスの電話がかかってきても方言だったら切らずに聞き入っちゃう。
(方言がない普通のフィンランド語だったら電話即切りしてます。)
相手の話す言葉の種類によって態度が変わるんだなと感じる瞬間です。