ふうちゃんのこと
※注∶この記事には、ペットの死やペットロスに関する内容が記載されています。
「禍福は糾える縄の如し」。
2023年末、これほど強くこの言葉を実感した一年はそうそうなかったように思う。
趣味の俳句でけっこう大きな賞をいただいた。婚活には失敗した。職場ではでかい不祥事の火消しで3ヶ月が吹っ飛び、売上は県下トップを独走し駆け抜けた。年末はほぼ毎日残業で、年内に消化すべきだった残務が山積みで新年を迎える。
SNSの俳句界隈では、年末のこの時期、「○年自句十選」というものがタイムラインを賑わせる。
私は今年、俳句関係の公募の大部分を欠席し、さっぱり俳句に取り組めていなかった。ほとんどは仕事疲れによるものだ。
しかし、そんな私が今年、10句立て続けに詠んだ時があった。令和5年9月、17年共に過ごした飼い猫「ふう」を失った時だ。
この一年を振り返ろうとした時、このことをどうあっても書かなくてはいけないという気がした。今までは、振り返るのが辛くて、気持ちも整理できていなかったが、今ならなんとかまとめられる気がしている。
ふうは、私が実家を離れ、県外の大学に在学していた頃、両親の元へやって来た。当時はまだ子猫で、私はその頃をほとんど知らない。年末に実家に帰省したときには、既に立派な成猫になっていたからだ。猫の成長は早い。
ふうは、ひどく引っ込み思案で大人しい猫だった。でも、それだけ、人の気持ちがよくわかる猫でもあったと思う。
私は在学中ひどく体調を崩し、卒業後もまともな職に就けず、実家で引きこもりに陥っていた。何とか社会復帰してからも、体調は安定せず、しばしば酷い抑うつが私を襲った。
そんな私を癒やしてくれたのが、他ならぬふうだった。あの頃ふうがいなかったら、私の人生はもう少し早めに終了していたのではないかと思う。
私がベッドで臥せっていると、そっと上に乗ってきて、ゴロゴロと喉を鳴らす。その音を、湿った鼻息を、滑らかな毛皮の手触りを、今も鮮やかに覚えている。
その晩年まで、我が家はふうの天下だった。しかし、その日もやがて終わりを迎えることになる。ふうの世界に飛び込んできたのは、私がうっかり拾ってしまった、一匹の子猫。「のぼる」と名付けたその猫と、ふうのファーストコンタクトは最悪だった。
のぼるは当初、ノミまみれダニまみれの上、酷い猫風邪に罹患していたので、ふうとは隔離していた。しかし、うっかり空いていたドアから、ふうがのぼるのエリアに侵入。母親から育児放棄され、ガッツリ愛に飢えていたのぼるは、ふうを見つけた瞬間猛ダッシュで接近した。
ふうからすれば、いきなり鼻水まみれの見知らぬ子猫に突撃され、相当面食らったに違いない。凄まじい威嚇の声と共に、ダッシュで逃げた。ここで猫パンチが出なかったのがふうの優しいところなのだが、これ以降、ふうは原則として、のぼるを半径30センチ以内に近づけることを許さなくなった。
しかし、何だかんだで、その関係は次第に変化した。二匹のケンカは次第にプロレスの様相を呈するようになり、老いてちょっとしょぼくれかけていたふうは、確実に元気になった。「若造に負けてたまるか」という思いがあったかどうかは知らないが、これは確実に良い変化だったと言えるだろう。真冬でも一緒にくっついて寝ることはない2匹だったが、「家族である」という認識は生まれていたのではないかと思う。
のぼるが来てよかったことはもう一つあった。のぼるは「愛嬌」が毛皮を着て歩いているようなタイプの猫で、天性の甘え上手だった。そうでなくても子猫はかわいい。どうしても子猫中心に回る我が家に、ふうは正直、かなり嫉妬していたと思う。
しかし、ある頃から、面白い変化が起こった。ふうが、のぼるの甘え方を真似し始めたのだ。もともと万事控え目だったふうだが、のぼるの天真爛漫ぶりを目の当たりにし、「ここまでやっていいんだ」と開眼したものと思われる。おずおずと甘えてくるふうは、それはそれはかわいかった。
だから、ふうが息を引き取った後、我が家が受けた衝撃は、想像をはるかに超えたものだった。両親も私もいい年だし、肉親を亡くすのだってもちろん初めてではない。でも、ふうの最期とその欠落は、マグニチュード10の地震のように我が家を揺さぶった。
晩年のふうは、毎年夏になると体調を崩した。数日絶食し、さんざん家族をやきもきさせた挙げ句、げっそり痩せてはゆっくり元に戻るのが、夏の恒例行事のようになっていた。
しかし、今年の夏の絶食は、全く元に戻る気配がなかった。8月の終わり頃、物置でぐったりしているふうが担ぎ出され、そこからほとんど動かなくなった。「熱中症ではないか」と、水や薄めた経口保水液を口に運んでも、飲もうとしない。じっとうずくまり、ヒューヒューと不穏な呼吸音を漏らす。やせ細った背中を撫でても、ゴロゴロ音が聞こえてこない。「いよいよ、来るべきものが来る」という覚悟は、とうにできていたはずだった。
私は平日は働いているので、世話は両親に任せるしかなかった。さっぱり集中できない仕事を何とかやっつけ、家に帰るとふうの側で寝るまで過ごす。そんな日が何日か続いた。「これだけがんばっているのだから、持ち直すのではないか」そんな私の淡い期待は、すぐに打ち砕かれた。
「お前は見んで済んでよかった」
両親がそう繰り返す、ふうの最期は凄まじいものだったという。ずっと動かなかったふうが、その日はよろよろと庭に出た。付き添った母は、「死に場所を探しているのだ」と思ったそうだ。思えば、物置に籠もったあの日もそうだったのだと。
それでも、残暑の激しい庭に置き去りにするのは忍びなく、抱いて家に連れ帰る。その直後、ふうを激しい痙攣が襲った。仏間の畳の上で、這いずりながら、荒い息をつなぎながら、3時間にわたりそれは続いた。
私は、当時両親からその話を聞いて、理不尽な怒りに襲われた。どんなに辛くても、酷たらしくても、後々傷になっても、私は見届けたかった。仕事がなかったら。せめて、もう少し業務負担が軽ければ、最期に立ち会えたかもしれないのに。私にとって、ふうはそれだけ大事な存在だった。
畳の上に横たわるふうの体には、まだ少しだけぬくもりが残っていた。
「よくがんばったなぁ、ふうちゃん」
なぜか、涙はそれほど出なかった。本当は、大声を上げて泣き叫びたいはずなのに。もっと、もっと素直になって、自分の上に覆いかぶさっている「大人」の仮面をかなぐり捨てて、泣きたかった。泣くべきだった。でも、できなかった。
思いの外ダメージが大きかったのは、両親だった。これはさすがに想定外だった。特に父は、普段から「別れはかならず来るのだから、いついかなる時も心乱されぬよう覚悟を決めるべし」というようなことを言うタイプの人間だったのだが、ふうが亡くなった数日後、不意にむせび泣いて母を驚かせた。後で父が語ったところによると、フラッシュバックに襲われたとのことだった。
父は、ふうが痙攣に襲われている間、ずっと「安楽死」という選択肢を考えていたという。しかし、どれだけ目の前でふうが苦しんでいても、自ら手を下すことはできなかった。その無力感と後悔は、父の幼い頃の記憶を引きずり出した。幼い頃、救えなかった命があった、と父は言葉少なに語り、私はそれ以上は聞けなかった。
たった一匹の猫の死が、どうしてこんなに辛いのだろう。父も母も、ずっと元気がない。のぼるでさえ、なんだかそわそわと落ち着かない。家の中に、耐え難い空白があった。体の内側がぼろぼろと崩れ落ちて、血が止まらない。そんな心地でひと月近くを過ごした。
その間ずっと、私は言葉を探していた。
「ふうちゃん、おえんかった(だめだった)わ」
と告げた、母の肩越しに見えた夕焼け。最後まで、目を閉じさせてやれなかったふうの亡骸。
「ちょうど花がなくてな」
と母が摘んできた、ささやかな秋の草花。机の上に残された、小さなスポイトに残っていた水。棺を埋めるため、黙々と畑を掘り返す父の汗。開け放った仏間に吹き込む風が、怖いくらいに澄んでいたこと。
それらすべてが、俳句になった。苦しい日々の中に、季語が溢れていた。多作ができず、連作など一度も編んだことのない私が、あっという間に10句を作り出していた。
我が猫にさよならを言ふ秋の夕
汝は逝きぬ二百十日の只中を
シリンジにひとくち分の水澄んで
母摘みし供花に猫じやらしふたつ
からあゐの赤の彩る棺かな
悲しみを分け合ひ啜る冷し麦
秋暑しシャベルを振るふ父の黙
喪失の窓辺に秋を見つけけり
汝の居らぬ部屋へ色無き風満ちて
コスモスのやうに優しき猫なりき
※からあゐ…鶏頭の古名
私が師と仰ぐ俳人は、常々「俳句は人生の杖」と言う。あの頃私は確かに、切実に杖を必要としていて、それにすがった。だからこそ、何とか乗り切ることができたと思う。
辛いことから立ち直る時、「忘れる」ということはどうあっても必要だ。でも、失ったのが大切なものであればあるほど、「忘れたくない」という思いはずっと残る。だから、私はこうして俳句を作り、この文章を書いている。
忘れないように。忘れても、またいつでも思い出せるように。
優しくて、かわいくてかわいくて仕方なかったあの子のことを。