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「都住創」とは。

ここでは、「都住創」の基本情報である建設経緯と目標、
参加者が連携して取り組んだ諸活動について、
共有したいと思います。

「都住創」の建設経緯と目標

「都住創」は、「都市住宅を自分達の手で創る」ことを目的に、1975年に発足した集団です。複数のユーザーが建設組合を結成し、一般にはコーポラティブ方式と呼ばれる方法を通じて、土地購入、設計委託、工事発注から完成後の建物の維持管理に至るすべてを共同して行いました。住まい手となるユーザーと中筋修、安原秀、小島孜を中心とする建築家グループが混然一体となって活動を展開しました。
1977年の第1号松屋町住宅の完成以来、1991年完成の第17号岡山町まで毎年1~2棟の建設が続けられ、バブル景気の影響による7年間の活動中断を挟んで、2002年完成の第20号糸屋町まで大阪市内に全20棟、約300の区画が建設されました。各棟の区画数は、最小の7(第9号森の宮)から最大の50(第19号大手前)、全棟平均で14であり、小規模集合住宅に位置付けられる規模でした。
「都住創」では、一貫して「都市に住む」「共同建設を行う」「住居の質を高める」という三つの目標を掲げ、大阪の都心部において共同住宅の新しいビルディングタイプを開発する努力が続けられました。

4号コープ内平野 1979年
築40年超とは思えないモダンな外観

都市に住む

活動当初の時代背景として、職住混在は排除され、都心はビジネス空間へ住宅は郊外へと二極化し、通勤地獄に苦しむ人々が増えつつありました。社会資本が蓄積され、豊富な情報量と利便性に富む都市は人が住み、働き、遊ぶための場所として適することから、職住混在の市街地として発展してきた上町台地北端の谷町界隈が「都住創」の建設地として選ばれました。


6号 都住創中大江 1981年
公園に向かって大きく開いた開口部

共同建設を行う

地価の高騰する都市部での住宅取得は難しく、「都住創」では経済的な悪条件の克服には共同作業によるしかないと考えました。このことがコーポラティブ方式を採用する最初の動機となり、発注者が主体的にコストを管理し、実費主義でプロジェクトを進めることにつながりました。情報がオープンとなり参加者の間で共有されることになったわけですが、このことは完成後の自主的な維持管理活動に結びつきました。


11号 都住創清水谷 1985年
赤の装飾が印象的

住居の質を高める

「都住創」では、住戸の規模や平面プランを自由とし、参加者との対話を通じてつくりこんでいく方法がとられました。他にも造付家具による高度なインテリアの実現などさまざまな手法が開発され、まるで戸建住宅を設計するのと同じ感覚で高層高密度の都市住宅を創ろうとしたわけですが、集合住宅の住戸プランニングは自由であることを示すことにつながりました。


15号 トリオーネ 1989年
傾斜地を生かしたプランニング

「都住創」で展開された諸活動

1984年には、第10号都住創釣鐘町の地下1階に、それまでの参加者の出資によって「都住創センター」が設けられました。この10m四方の多目的ホールは、都住創協会の運営により、建築の展覧会、演劇公演、音楽会、落語寄席、セミナー、教室、バザー等に活用され、多種多様な人々の出会いにつながり、都市居住の魅力を人々の記憶に残しました。
同時期に、管理組合活動に関する情報共有や建物メンテナンスの共同発注、消耗品の共同購入等を目的とする都住創管理組合連合会が設立されました。また、複数の都住創の住民が地域の学童保育(中大江子どもクラブ)に取り組み、都住創事務局の支援を受けながら今日に続く活動を始めました。
これらの活動と並行して「都住創ニュース」の発行が続けられました。新規の都住創プロジェクトの募集・進行報告、「都住創センター」で開催された文化活動の報告がなされ、都住創の参加者だけに留まらず、地域への情報発信・共有にもつながりました。

「都住創」は、2022年時点で建設後20年~45年が経過し、一般的には高経年集合住宅に位置付けられます。建設組合に参加した第一世代から、相続や売買を通じて次世代居住者への継承が進行しています。都住創どうしの横のつながりがなくなってからも久しくなりました。この20年で大阪の都心居住も一般化されその勢いは増大するばかりですが、次世代の集合住宅のヒントとなる「都住創」の貴重な取組を継承する仕組みが望まれます。

文・荒木公樹
都住創内淡路町に2013年より居住。前オーナーからの依頼でリノベーションの設計を手がけたことをご縁に住み継ぐことに。職住一体の住まいを実践中。

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