「共感性」は必ずしも“優しさ・温かさ”を意味しない【ストレングス・ファインダー】
こんな自己紹介記事を書いた。
全体的には16TypeのINTP・ソシオニクスのLII・エニアグラムのタイプ5、みたいな感じなのだが、こういったいわゆる「研究者気質」の中で、あきらかに場違いなものが1つあった。それはストレングス・ファインダーで2位として出た「共感性」だ。
分析してみても、この共感性とは結局どういう意味なのか、別に気配り上手でもカウンセラー的でも癒しキャラでもなさそうなのに、一体なんでこれが出てきたのかと、強い疑問が残っていた。
しかし改めてこの資質について読んだり調べたりしてみたところ、なるほどそういうことか、と腹落ちできたので記録することとする。
結論を先に言うとべつに共感性が高い=気配り上手・優しい・癒しキャラ、というわけではない。共感性は無意識に発動している能力のひとつであって、それで感知した情報を元にどう行動するかや、どんな印象を与えるかとは全く別の話だ。
「共感する」というより「憑依される」「機序の理解」
世の中で一般的にいわれる言葉としての「共感」には、「それを良いと思う」とか「同じ意見である」といったニュアンスが存在する。ここが最大の引っかかりだ。
私はよく「理解はできるが、共感はしない」という言い方をするのだが(こんなことをいちいち言うやつの“共感性が高い”と思うだろうか?)、このセリフ内での「共感」とは、先ほど挙げた一般的な意味と同じ「同じ感情をおぼえる、同じ意見を持つ」である。
しかしストレングス・ファインダーでいう「共感性」は、先ほどのセリフの「理解する」も含んでいるようだ。例えば、あなたの気持ちがどのような理由で発生したのかは理解できるとか、彼のような環境に置かれていればああ感じるのは自然なことだろう…このような「私は同じ感情を持ってはいないが、何を感じているかはボンヤリとわかり、なぜそう感じるかも推測を元に納得できる」が「理解はできる」だ。
そして、共感も理解もサッパリできないことはまず無い(たとえ凶悪犯罪者であっても「理解」はできる)ので、その意味では確かに私の「共感性」は内省の次点におさまるのだろう。
ある意味で「共感」という言葉を正確にわかりすぎ、その重みを実感しているが故に、一般的な意味の「共感」は薄っぺらく感じるのだ。よくビジネスの文脈で「共感される云々をつくりましょう」と書いてあるが、はっきりいって唾棄すべきである(わざわざこんな強い言葉を使うやつに“共感性”があると思うか?)。
逆にいうと、これほど強い怒りを覚えるのは、やはりそれだけ強力な資質ゆえだろう。身内の気持ちは大切そうにしているのに、犯罪者の気持ちは理解しようともせず糾弾ばかりするのは何故なのか、私には「理解はできるが共感できない」のである(もちろん、自分や身内が被害にあったら糾弾するのが普通。遠くの知らない人や芸能人をわざわざ“お叱り”にいく連中がわからない)。
ストレングス・ファインダーにおける「共感性」の能力を、もっと実感に即して言いかえるならば、「憑依される」「瞬間トレース」といった感じで、つまり自動機能である。
よく説明で使われている「他者の感情を敏感に察知する」「親身に聞く」「自分の感情かのように感じる」は微妙にわかりにくい。能動的に察知している感じではないし、親身に聞くかは関係性や状況によるし、自分の感情と他者の感情の区別はできる。
善悪や賛成反対やTPOにかかわらず、相手の感情らしきものが勝手に流れ込んできて、「そういう事情なら、そうだよね」と納得してしまうのだ。確認のしようがないこともあって、その打率は高いとも低いとも言いがたい。どちらかというと、相手を蹴落としてナンボな資本主義社会においては不利な性質である。
私の「共感性」の使い方
で、そのようにして感情がわかったとして、その次にじゃあ相手を励ますか?話を聞いてやるか?それとも無視するか?…という「その後の対応」は、共感性能力そのものとは関係がない。共感性以外の得意分野や、それまでの人生経験と読んだ本の内容、そして相手の性質や相性などが複雑に絡んでくる。
私の場合、共感性能力で得た情報はまず「真実を知るための材料」として使っている。真実といっても、単に日常的なできごとについて「何がどうなって、こうなって、そうなった」と、一連のピタゴラスイッチを背景込みで認識したいだけである。私の最も好きなことは「理解と納得すること」なのだが、理解や納得するためには推測材料が必要であり、人の感情もその材料の一つとして集まっている。
これは仕事でも一応役に立つ。たとえば上司の言っていることと表情が食い違っていれば「この顧客と上司のあいだで過去に何か問題があったのかもしれない」とか「この人は今回の件に強い怒りを感じているが、それは抑えて良い上司であるよう努力しているのだな」などのあやしい情報が得られる。こういう大量の推測情報と実際の行動を組み合わせて人格を割り出し、コンプレックスを刺激しないようにしたり、言葉の裏にある前提条件を汲み取ったりする。
プライベートでももちろん使える。共感性で得た情報をもとに質問して、相手の性質や状況を理解したり、解決策を考えたりする。夫がなにか隠していたら一瞬でわかるし、友人の表情が曇っていたら「なにかあったのか?」と質問して何時間も話を聞いている。だいぶ昔の話にはなるが、弟がルンルン顔で部活から帰ってきたので「(最近愚痴を聞かされていた)やつとペアにならずに済んだんだな」と言ったら「なんでわかんの??」と不思議がっていた。
一般的に「共感性が高い人」でイメージされる「寄り添う優しさ」は、推測&理解とは異なり、私の標準機能ではない。ただ、自分にとってメリットや重要感があれば発動もやぶさかではない。そういうわけで、私は「優しい」よりも「理解力がある」と言われる頻度の方がずっと高い。
改めて分析してみる
ここで改めて私のストレングス・ファインダーを貼ってみる。
共感性とはなんなのかを把握した上で見ると、なるほどである。理解や納得をするときには内省的思考が必要で、その終盤には着想があり、それに必要な情報ストックを増やすために共感性・収集心・着想を使っているのだ。
責任感は一応実行力だが、たいてい考えたり感じたりしてばかりで、行動に移そうと思っても正義感や「誰にとっても通じる普遍的正解などない」という実感が邪魔をする。これはいかんともしがたいが、仕方ない。なんとか手元のカードでやるしかないのだ。