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祈りと願いと愛と。


人はいつから祈ることを始めたのだろう、なんてふと考えてみた。

人間は古代から自然の力や生活の調和を求めて祈ってきたことが知られている。
そして祈ることは、クリスチャンとしての大きな特権の一つでもある。祈りを向ける存在と場所を持ち、そこに堅い信頼をおいている。
祈りと願いには違いがある。『祈り』は、個人の望みの成就を目的せず、神との対話を意味する。一方で『願い』は個人の望みを叶えてほしいと神に乞うものである。

キリストの祈りを思い出す。

十字架にかけられる前夜、ゲッセマネの園で弟子たちに向かって「悲しみのあまり死ぬほど」だと言い、「アバ、父よ、あなたにはできないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」(マルコ14:35~36)と天の父に祈った。
しかし十字架の上では再び、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46、マルコ15:34)と叫ぶ。神の沈黙を経て、最後には、「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)と言って神の御心を成し遂げた。

こう見ると、私たちが神に個人的な願いをすることもゆるされているということだ。人間だもの。

ところで、私は祈りが得意なわけでは全くない。
一番よくやる習慣といえば、トイレの祈りである。大きい声では言えないが、私はよくトイレに座ったまま「主の祈り」をつぶやきながら瞑想に陥っている。もしくは就寝前や心が騒ぐときに、頭頂を床につけたような半ウサギポーズでむにゃむにゃと祈る。共に後半にはほぼ眠っている。

そして避けがちなのが、人前での祈りや執り成しの祈りである。先日久しぶりにオンラインで集まった仲間たちと祈り合う中、いい意味でまたそれを味わった。だからこうして、ちょっとだけ姿勢を正してみようとしている。

私は祈りの力はとてつもなく信じているし、執り成しの祈り(他人のために祈ること)による癒しの体験もある。それは、祈る側と受け取る側の信じる力が相互に働いたときに起こる現象であると信じている。

人はどんなときに祈るのだろう。
朝昼晩と祈る人もいるだろう。
平安なとき、
感謝したとき、
喜びのとき、
体を病んだとき、
心を病んだとき、
勇気がほしいとき、
悲しくて仕方がないとき、
不安でどうしようもないとき、
なにをどうして良いか分からないとき、
智慧と諭しを得たいとき、
神を讃美したいとき...

目の前に見えることから祈り始めることもあれば、天を仰ぐことから始めるときもある。順番はどうであれ、私が祈るときには、恐らくこの信仰が柱になっている。

ー 主を仰ぐ
「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」マタイ6:33

ー 父の愛
【主】よあなたは私を探り知っておられます。あなたは私の座るのも立つのも知っておられ遠くから私の思いを読み取られます。あなたは私が歩くのも伏すのも見守り私の道のすべてを知り抜いておられます。詩篇139:1-2

ー 憐れみ
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。 わたしがあなたがたを休ませてあげます。 」マタイ11:28

ー 求める
「求めなさい。そうすれば、与えられる。」マタイ7:7

ー 父への愛
「父が子によって栄光を受けるためです。」ヨハネ14:13

ー 祈りを手放す
「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。」マルコ11:24

これをイエス・キリストの名において終える。

また、この柱を支えているのが、個々人が持っている神学の土台であり、またそこに息を吹き込んでいるのが聖霊なのだと思う。

私がこれまでに聴いた祈りの中で一番心が動かされたのは、その人の信じる神学を祈りの中で聞いたときだった。これは私の宝物のような祈りである。教会の元牧師が小さな集会の中で私たちのためにこう祈ってくれた。

「主よ感謝します、私たちにあなたの永遠の命を分け与えてくれたことに。」
"Thank you, Lord, for sharing your eternal life"

これはよくある祈りだったのかもしれない。でもこれを信じて私たちに神の愛を送ってくれた牧師の祈りは、そこにいた彼の羊たちを深く慰めた。

いろいろ考えてみたけれど、やっぱり祈りも結局は「愛」だな、というところに行き着いたようだ。愛して、愛して、とにかく愛して、愛を育てるしかないのだと。


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