神の悪戯と完璧な創造 14 - 聖霊の伝導
ー聖霊の伝導 The Conduction-
もうひとつの不思議な現象に、聖霊の力は他人に伝導する、ということがある。
2017年のイースターあたり、当時小学生だった長女は気分が高揚していた。
台所に立っていた私に近づき、興奮した様子でこう言った。
"Mama, I'm so glad! I don't know why, but I'm so glad! Jesus was resurrected! Christ is Risen!!"
(「ママ、なんだかわからないけど嬉しいの!すごくうれしい! ジーザスが甦ったの!!」)
彼女は、学校の集会でバーニー牧師からイースターの話を聞いたのだと言う。それからわけもなく嬉しくなったそうだ。
同じ週、教会で子供向けのイースター礼拝があった。その時、活力に溢れた姿で羊たちを導いている牧師のローブが、光を帯びているように見えた。
隣にいた長女も同じように感じていた様子で、私たちは顔を見合わせた。その光からは「触れてはいけない」、そんな威厳さえ感じた。
礼拝の後、私は聖具室(vestry)で片付けをしながらそこに置いてあったローブを見た。光はなかった。ちょっと触ってみたくなりそれに手を伸ばしかけたところ、珍しく長女がその部屋に入ってきて、「ママ、さわっちゃだめ!」と言った。それが偶然だったのかわからない。
またある日、私は自宅の狭いキッチンで、アメリカで起こった学校銃事件のニュースを聞いていた。私はその衝撃と悲しみでいっぱいになり、私の身体は憤りで燃え上がっていた。
するとそこに近寄ってきた長女が、突然興奮した様子で、
「よくわからないけどすごく嬉しい!」
と言い出した。
長女はその事件のことも、私がニュースを見ていたこともなにも知らなかった。
私は、これらの不思議な現象から、聖霊から出される感情は、それが怒りであろうと悲しみであろうと、それ自体が「愛」のエネルギーなのだと理解した。
ー聖霊の結合 Unity of the Holy Spiritー
ある日の朝の祈祷会での出来事。
バーニー牧師を含むいつものメンバー6人は、サイドチャペルと呼ばれる、北側のステンドグラスを持つ小さな部屋で祈っていた。私たちは心を合わせ、そこにいつもより少し長い沈黙が生まれた。
その時、薄く目を閉じていた私は、私たちの頭上に大きく円を描いて包む光を見た。
私はその時、誰にもそのことを確認しなかったが、バーニー牧師は私たちの祈りが終わったとき、
"We did it! We did it!"
と言って立ち上がった。
私たちは、それぞれが持つ聖霊の力を組み合わすことができる。そしてそれが空中で一つになる。私たちが心を合わせて祈るとき、その祈りは大きく増し加えられるのだと思った。
-御使い The angels-
私はこれまでの不思議な体験を思い返していた。
あの日の礼拝の説教中、牧師と私の間で聖霊が行き来したこと。それはあたかも、体から体へ、愛がエネルギーとなって運ばれてきたような感覚であったこと。聖霊は個人を認識しているのだと感じたこと。あの日の未明、眠っている私に起こったことが、昼間にも同じように起こったこと。
ある日の礼拝後、教会から出た私の体にまとわりつくような温かい感覚がついて来たこと。まるで生きているかのように、私の背中、首元、足回りを取り巻いたこと。
私は、聖霊の結合という現象を確信し、そして、御使いの存在を信じるようになった。
400年以上前に建てられた教会の祭壇の椅子に私は腰掛け、天井近くから私たちを見守る芸術的な天使の彫像たちを、じっと見つめた。
世の中では戦争が絶えず、宗教が国家に権力を与え、民を統治したり支配しようとしたりしている。
そのような中で、御使い達は、ひとりひとりの魂に聖霊を与える助けをし、聖霊と聖霊を結びつけ、天と地にその御国を作り上げている。地上で統合された聖霊が、天においてさらに統合を重ね、いつかまたこの世に落とされる日が来る。
-祝福 The blessing-
その年のクリスマス頃になると、私の心は祝福と恵みへの感謝で満ち溢れていた。
ある朝、私は祈祷会に向かう教会への坂道を、息を切らしながら駆け上がっていた。
カーブを過ぎてもうすぐ教会が見えるというところ。突然、目の前で鳥のさえずりが高まり、突風が木の葉を大きく揺らしてその一瞬はげしい音を立てた。その空に霧雨が降りかかり、小さな雨の粒の波が目の前に大きく揺れた。
それは目にも耳にも強くて美しい光景であった。私が急ぐ足を緩めてそれを眺めていると、さらに続いた。
私が見上げていた空に、太陽の光が勢いよく照らされ、霧雨がたちまちに金色のシャワーとなり、それが渦巻く突風に吹かれて幾層にもなって揺れたのであった。私の目の前一体は驚くほどにきらめき、その時、鳥も木も一層声を上げた。
ほんの十数秒間の出来事だっただろう。
私は胸の中でつぶやいていた。
これが、祝福だとしたら?
天のお父さんが私を祝福してくれているとしたら?
もしかしたら、ね。
私は少し笑ったのかもしれない。その圧倒的な感動と少しの冷静さをそこに残して、私は教会へと急いだ。
しかしその後、その光景は心に刻まれ、忘れられないものとなった。
私たちの父は、私たちにいつでもその愛を示そうとしている。
そう思い、嬉しかった。