「教育作業員」
2021年6月ごろ、職場で「怪文書」と称して突然の文章を作成して一部に配布していたのを思い出しました。教育の職場であまり教育を語らない問題に一石もとい砂粒1つ投げ込もうとしたのでした。もうあれ2年以上前なのか、と思い出し、このnoteに供養します。当時はまだ「,」を使っていたのも今では愛おしく懐かしい。
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2021年ももうすぐ折り返し,という悲しいお知らせが入る,新年度始まって2か月半です。皆様,それぞれお仕事いかがでしょうか。忙しいですか,そうですか。
忙しいですね。忙しくなけりゃこんなもの書きません(倒錯)だって直接話せばいいのですから。私たち,あまり教育について話せませんよね。農家は顔を合わすと作物の話や気候の話をするのが常です。教師が顔を合わせても,けっこう気候の話します。何でか知らんけど。
教師は専門職ですから,専門の話をするのは自然ですが,どうもそういう会話をしていない。業務に関する話を,どこか憂鬱そうに,邪魔くさそうに,することが多いのです。
矛盾していますね。教育について話せない私たち。でも,業務(学校)の話をしている。教師は専門職で,その業務は教育のはずだ。何かがおかしい。
こう話すと,次にたいていこう返ってくるのです。「本来の仕事じゃないものが多い」。やらなければならないことが多く,それによって,本当にやりたいことが後回しになる,と。この実感は,かなり切実なものであろうかと思われます。
別に私は意識高いたかーい系ではありませんので,どんなことも自分の”志事”にしていこうぜ,みたいな寒い言葉遊びを言う気はありません。一旦,便宜的に「本来の仕事」を仕事,「やらなければならないこと」を作業(もしくはタスク)と区別してみましょう。
どんな仕事でも,核となる仕事を進めていくために,どうしても作業は発生します。農作業でも,育苗計画を立て,機材を整えたりします。そうしておかないと,本来の仕事に支障が出ますから。
教育においても同様なのですが,どういうわけか私たちは「作業がすっげえ多い」という状況にあります。作業のために作業が必要になることもあります。作業に関する会議があり,そのための資料を作っている,とか。
この状況は文字通り「働き方改革」とかして何とかしてかないと,仕事になりません。本来のプロフェッショナルたる仕事ができないわけですから。教師はあまりに総合職になっており,作業を効率的にさばいていくスキルは,一定必要になっているのは事実です。
だが,この状況は往々にして,「作業こそが自分の役目である」という混乱を,教師に植え付けがちになるという問題を生みます。
作業は基本的に,他律的に要請されるものです。学校は組織で仕事していますから,組織レベルの大きな仕事がまずあって,必要な細かな作業が個々に割り振られるのが通例です。「作業が自分の役目」と思ってしまった教員は,割り振られた作業を完了することに主眼を置きます。黙って,自分の分をやります。幸いにも自分の分が終われば,帰宅の時間です。途中で業務が増えると,「負担だ」と文句を言います。他の担当者や分掌の作業が回ってくることなど許せません。自分の作業に関わらない会議は,できるだけ短くなることを望み,何なら話を聞かずに手元で作業を進めていきます。
そういう教員(”作業員”でしょうか)には,2つの落とし穴が待っています。
1つは,「本来の仕事を見失う」ことです。作業は,基本的に与えられたものを終わらせるものです。終わったらチェックリストから消していくものです。ですが,教師の本来の仕事は,指導のその後の生徒の変容こそが焦点になります。自分の行った仕事も作業も,その後どういう結果や影響につながったのか,その結果や影響は仕事に照らしてふさわしいものだったのか,と確認せずにはいられないはずです。作業こそ役目と思っていると,「面談をしろと言われたから面談をやった」で止まってしまい,それが指導としてどうだったのかに無頓着になるおそれがあります。
もう1つは,「チームワークを放棄する」ことです。作業は終わらせるものですから,自分の作業がすべて終わることが,まず目指されます。隣の人間の作業が遅かったら,親切心で手を貸すかもしれません。ですが,それはあくまで親切心にすぎず,結局は自分の作業の進捗が第一の関心になります。そうなるのが自然です。
同一作業を分担している場合,「とりあえず終わらせるまで」の仮のチームは出来ることはありますが,それもあくまで個々の作業完了までの,功利的な集団です。
仕事は,本質的な意味では引退まで終わりません。奥深く,独力では到底達成できないような目的があり,それに向かって専門家集団が活躍するわけです。ここでチームワークが生まれます。隣の人間が仕事について悩み考えていたら,その同僚の悩みは,自分の仕事の悩みであるはずなのです。
ここ2年,仕事と作業とが混同されている場面をたくさん見てきたように思います。各分掌の部屋に分かれてばらけている現在の集団を,改めて取り結べるのは仕事に基づく目的意識しかない。
でも「校内全体で共有を…」みたいな呼びかけも,すぐに作業化してしまう。そんなわけで,今回は「怪文書」を書き,仕事する専門家集団の候補者たちに届けようと思ったわけです。
こっそりやります。「仕事人」は暗躍するものです。
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こういう文書でした。2年半ほど経った今、当時の私に言えるのは、