「おごる・おごらない」論争で1番好きな意見かも
この言説は「おごる・おごらない」論争で1番好きかも。
論点がずれてると言えばずれてるけど。
おごりたい人がおごって、おごられたい人がおごられて、が1番幸せだ。
だいたいの人が1日2、3食食べるし、それが外食になり、誰かとの交流も関わってくるケースも多いのだろう。
(私のように、外食も人との交流もだいぶ少なく生きてる人も大勢いるだろうけど。)
そのたび「おごるか、おごられるか、割り勘か」の選択肢がいつも浮かび上がってくるのだから、相当数だ。
だからこの論争はいつも上滑りして核心が突かれないまま、人々の口に上っては消えを繰り返しているのだと思う。
いつかAIでも使って、この「おごる・おごらない」のカードを整理したい。
・おごりたい人
・おごりたくない人
・おごられたい人
・おごられたくない人
・「人」「状況」それぞれのレベルや条件(経済状況とか)
・その中間に発生する「思惑」「人間関係の摩擦」「気まずい」とかの感情やデリケートな問題
これらの利害のマッチとアンマッチ。
白か黒かで片付けられない理由は、属性や性質が多岐に渡ることも一因だと思う。
求める見返りが合致していれば、おごってもおごられても問題ないはずだ。
フェミニストの自分としては、ここでいつも「(おごられる)着飾った若くて美しい女性」を「卑しい」と“一刀両断”することで「言ってやった」感を出す浅はかな人間を目にすることで嫌な気持ちになる。
テレビやネットで、環境型セクハラがどうにもやめられない国民は、いつどんな時にも「着飾った若くて美しい女性」を崇め奉ってるのに、同時に唾を吐きかける勢いの嫌悪をむき出しにしてくる。
せめてどちらかにしろよ、と思う。
ミソジニー的な人たちの二面性や身勝手で幼稚なジレンマは置いておくとして。
この論争は、論点を整理すればだいぶ解決に近づけると思う。
おごられたいなんて思ってない人たちが、「おごられたいなんて卑しい」と一方的に罵られ、おごることにメリットなんてない人たちが、「ケチなんてみっともない」といさめられるのは、非常に不毛だからもうやめたほうがいいと思うのだ。