【FGO2部6章感想】俺は奈須きのこに完全に負けた【ネタバレあり】
アヴァロン・ル・フェやった?
俺はやったよ。超良かったよな。ここ最近のFGOへの不満が全部吹き飛んだ。物語に殴られるってこういうことを言うんだと思った。
殴られた衝撃と同時に、こう思ったんだ。
「ああ、俺は奈須きのこを見くびっていた。俺は奈須きのこのことを天才だと思っていたけど、初めて完全に負けたと思った」
このnoteではどうしてこう思ったのかをオタクが激情に任せて書き殴りたいと思う。
また、アヴァロン・ル・フェをまだやってない人は死んでもこのnoteは読まないでほしい。一人でも多くの人に、一切のネタバレを拒否した状態で物語に溺れてほしい。
・オタクの自分語り
まず、アヴァロン・ル・フェの感想に入る前に、俺が奈須きのこにどんな思いを抱いていて、FGOをどう思っていたのかについて語りたい。
なるべく短くするがオタクの自分語りに耐えられない場合この部分は飛ばしてほしい。
俺はだいたい15年前くらいからTYPE-MOONのオタクをやってた。当時は新参扱いで、いまは老害扱いされるタイプのファンだ。
月姫、空の境界、Fate/stay night。この3作品は俺の脳髄と精神を完璧に破壊した。
緻密な世界観と複雑な設定に魅了された。クドく、重苦しいのに、どこかリズムの良い文章は、読んでるうちに心臓がバクバクと音を立てるほど高揚させられた。何より魅力的なセリフ回しが胸の奥に突き刺さった。
奈須きのこは天才だ。この天才の作る世界にどこまでも触れたい。そう思った。
あの頃はろくに公式からの供給もなくて、本編やメディアミックス、派生作品を揃えたら、新しい型月の世界観にはそう簡単に触れられなかった。
年一のエイプリルフールを心待ちにしたり、ドラマCD「アーネンエルベの一日」をボロボロのipodに入れてヘビロテするような毎日を送っていた。
だからFGOが出ると決まった時はうれしかった。どんな形であれFateの世界が、物語が定期的に発信されるなんて夢のようだと思った。
ただ、1章をプレイした俺の胸に去来したのは失望だった。この失望は、6章が来るまでずっと続くことになった(空の境界コラボは嬉しかったかな)。
しかし、6章、7章、終章ときて、誰もが知るようにFGOは盛り上がった。特にキャメロットのストーリーは抜群の出来で、シナリオ以外が壊滅的なゲームでも、シナリオのパワーだけですべての悪評を粉砕した。
以降今日に至るまでメインストーリーの多くは高い評価を受け続けている。
・最近のFGOがつまらなかった話
しかしながら、最近のFGOはどうしても面白いとは思えなかった。理由は単純で、メインストーリー以外のイベントストーリーがつまらなかったからだ。
いや正直に言って、2部はメインストーリーでさえ不満を封じ込めるほどのパワーを感じなかった。確かに演出面では優れていたが、シナリオとしてキャメロットやバビロニアほどの衝撃はなかった。
イベントストーリーでは、奈須が執筆したと鳴り物入りであった2019年の閻魔亭繁盛記ですら、びっくりするほど記憶に残らなかった。いやまあ、つまんないわけじゃないですけどね。
正直な話、最近のFGOの顛末を見て「奈須きのこの才能は枯れたのかな」と思っていた。
もちろんFGOは複数ライター制で誰が何を書いているかは正確にはわからない部分が多い。ただし、原作が奈須きのこのサーヴァント、stay nightやhollow ataraxia、EXTRAで活躍したサーヴァントについては奈須きのこに監修の責任が生じるだろう。
奈須きのこが生み出したキャラクターが奈須きのこのゲームで活躍する以上、奈須きのこが認めた展開とストーリーと受け取られて当たり前という話だ。俺はその点で大きな不満があった。
有体に言ってしまえばほぼすべての疑似サーヴァント絡みのイベントだ。
同人ネタや与太話に終始し、大衆に迎合するばかりのシナリオ。設定を浪費されて、外見だけを酷使されて、関係性を破棄される過去作の人気キャラクター達。
そんな風に見えてしまうようになったってことは、俺はもうターゲットユーザーじゃないんだ。おじさんになるって悲しいな。もう型月から離れるべきかな。俺にはウマ娘しかない。
そう思っていた。アヴァロン・ル・フェをプレイするまでは。
・アヴァロン・ル・フェの構成
アヴァロン・ル・フェは3部構成の物語だ。
主人公がマシュと離れ、それぞれに旅をし、再会するもまた離れ離れになる、前編。
妖精騎士とモルガンを中心とし、モルガンを打倒し玉座を目指す物語である、後編。
そして最後の戴冠式編である。
それぞれに物語の起承転結が存在し、しっかりと感情を揺さぶる描写やクライマックスが存在し、苦境やそれを超えたカタルシスの感動がある。
例えば前編ではマシュの記憶喪失とアイデンティティの確立という衝撃的なイベントがあり、厄災を撃退するというクライマックスがある。
後編では、妖精騎士と戦い、すべての鐘を鳴らすというイベントを超えて、円卓軍と共にモルガンを打倒し玉座を手に入れるというクライマックスが存在する。
前編と後編だけでもメインストーリーの中核を担うストーリにできるレベルの盛り上がりであった。
それなのに誰が想像しただろうか。この前編と後編が戴冠式を描く序章に過ぎなかったことを。
戴冠式編ではブリテンに本格的にカルデアが介入し、厄災を討ち果たし、これまでの全ての伏線が回収される。今までの全ての登場人物の真意が、物語の裏側での何が起きていたかが明らかにされる。
文字数的には後編が最大であるが、少なくとも主人公の立ち位置に関しては戴冠式がメインの物語と考えるのが妥当だろう。
前編後編ではアルトリアと共に歩むもの、オベロンに導かれるものでしかなかったが、戴冠式では明確に主体的なリーダーとして行動している。
前編後編はわざと童話的な書き方がされており、どこか描写が客観的だ。自分を主人公に重ねて読んだ場合、どこか”傍観者”のように起こる出来事や人の決断を眺めているような印象を受ける(オベロンの言うとおりだ)。
対して戴冠式ではいつものように主人公は自分の意志で関わりだし、マシュの意思、そしてアルトリアの意思が前面に押し出てくる。
そのため読者からしても、戴冠式編は強く自分のことのように感じて感情移入しやすい。
・戴冠式以降の衝撃
正直戴冠式以前はどこかで思ってたんだ。
「なんだよ奈須。いいの書けんじゃん。こういうのもっと書いてくれよ~」
「胸糞がキツいけど、なんやかんやおもしろいよな。まだまだトガってんじゃん」
「おもしろいのはいいけど分割式はちょっとなあ・・・続きはよ!!」
そんな上から目線で”物語”を楽しんでいた俺を奈須きのこは完膚なきまでにぶちのめした。
・妖精というイキモノ
モルガンとトリスタンとウッドワスの愛が踏みにじられる顛末を見て、バーゲストの思いが全く伝わらない妖精の姿を見て、アルトリアへの虐待を見て。
胸糞だ、滅びろこんな世界、こんなイキモノは生きていてはいけない。そんな風に思った。
そして戴冠式以降のキャラクター達を見て、そんな思いを抱いた自分がひどく醜く見えた。
パーシヴァルは言ったのだ。どうかこの世界の美しさまでも否定しないで下さいと。
ブリテンで誰よりも高潔であった騎士は、俺が”こんな世界”と断じた世界に、”それでも”と声を上げていた。醜悪さを認め、弱さを認め、世界が終わることを認めてなお、”それでも”私たちの世界は美しいのだと。そう言える強さの源泉はなんなのか。それは彼の愛であったのではないか。
メリュジーヌと相対し、届くことのない愛を胸に、放てば必ず自らが死ぬ槍を自らの最愛に向けて放ったパーシヴァル。
彼はその愛ゆえに根本原因から目をそらし、メリュジーヌを止められなかった己を欺瞞と断じたけれど。”それでも”最終的に最愛を打ち倒す決意をしたパーシヴァルは美しかったのだ。
アルトリアは言ったのだ。荒れ狂う悪意の渦の中でも輝ける小さな善意はあるのだと。それが私の戦う理由だと。
妖精であるハベトロットは誰よりも尊い献身を見せ、絶対に裏切ると思っていたマイクはダヴィンチの生き方を尊重することを選んだ。円卓軍の妖精は人間のために死んでも戦うことを選んだ。
確かにその他多数の妖精の行いは非道で醜悪で、あまりの短絡さに滅びに向かわざるを得ないだろう。ただ、そのすべての営みが悪意に満ちていたわけでもなければ、当然滅亡すべきものではなかったはずなのだ。
楽しいこと、「人生の春」が題材となるアヴァロンの試練ではアルトリアに何ももたらすことはなかった。アルトリアの人生には楽しいことなど何もなかったのだ(だからこそクリア後の礼装で泣いた)。
それなのに、彼女は小さなどこかで輝く善性を信じて命を懸けた。楽しいことも、好きな人も妖精もいない、誰もが自分を嫌うそんな世界で。自分に向けられた善性などないのにも関わらず、それがどこかにあることを信じただけで戦っていたのだ。
俺はいつから自分に届くことのない小さな輝く星を信じることをやめたのだろうか。答えは出ないが、そんな問いが胸を突いた。
・なぜ分割式であったのか
分割式であったことにも理由がきちんとあった。
前編はマシュが自分を確立する物語だ。主人公の後輩ではなく、妖精騎士としての自分を、戦う理由を得る。ここで後編と地続きになった場合、アルトリアの戦う理由という後編のテーマの一つと混線しやすくなる。
前編と後編ではそれぞれマシュとアルトリア、二人の少女が戦う理由を探し、自分を得ていく物語としてある種類似のテーマが対比されているのである。
また、後編はモルガン周辺のストーリーがあまりにも重かった。時間をおかなければフラットな視点でいられないほどにはモルガン=トネリコに感情移入してしまった。
多分、後編直後インターバルがなければ、妖精への憎しみで、どんな展開が来ても「滅ぼせ!」としか思わなかっただろう。
そしてなによりも、分割にすることで読者の胸には、「早く続きを読ませろ」という思いが醸成されることになる。
そして、この「続きをはやく」、「特異点の修正を早く」という思いはオベロンによって明確に断罪される。
「物語の消費」だと。最後のページと共に忘れられ、現実の速度に置いて行かれ、次の話が来れば忘れられる。そんな風に物語を扱っていると。
更新・成長を旨とするお前らの態度が気に食わないから全部終わらせてやると。
そんなメッセージを叩きつけられたように感じるのだ。
・俺が奈須きのこに完全に敗北した話
最初に言ったように俺は奈須きのこの才能は枯れたと思っていた。
その理由の一つに、金と名声と地位を手に入れて、彼の中にそれほど強いメッセージを信念の叫びがなくなったんじゃないかと邪推していた部分もある。
自分がある程度本を読んできて、物語の構造を見る目がついてきたという自信もあった。こういう流れなら、このキャラクターはこういうことを言うでしょ、なんて予想がついていたし、ここ数年のFGOはそれが外れることもほぼなかった。
でも、この構造は全く予想できなかった。戴冠式で伏線を回収するんだろうとは思っていたが、そこで見せられたキャラクターの意思はすべて俺の予想をはるかに超えていた。
戦う理由のないアルトリアは絶対に折れてから、村正や主人公の力で立ち上がると思っていた。村正はあくまで助力者としての立場を守ると思っていた。メリュジーヌはオーロラを守って死ぬと思っていた。パーシヴァルはメリュジーヌに思いを告げると思っていた。マイクは裏切ると思っていたし、ベリルは最後の大ボスとして悪意を持って立ちはだかると思っていた。
俺なんかの想像は全く、奈須きのこの世界に追い付いていなかった。
こうまで想像をはるかに超え、心につきささる世界を描いてくるとは思わなかった。
こんなにも醜悪で、こんなにも悲惨な物語の世界でこんなにも美しい意志と信念を描ける。まさしく俺の心酔した天才・奈須きのこの本領であった。
才能が枯れたなんて見る目がないにもほどがある。負けたよ。そう思った。
最後まで読み終わってから、この物語のタイトルを見た。
アヴァロン・ル・フェ ー星の生まれる刻ー
まぎれもなく、あの楽園の妖精が目指した”遠くで輝く小さな星”のことだろう。クライマックスのオベロン戦でその輝ける小さな星としてカルデアの力になったアルトリア自身のことでもあるだろう。
そして、仮にそれが自分に向けられなくても、この世のどこかには”善意”という輝ける小さな星がある。そう信じる思いこそが我々読者の胸にも小さな星を生むのではないだろうか。
そう思った時にこそ、俺は奈須きのこへの完全な敗北を認めたのだった。
長くなって疲れてきたのでこの辺で。
読んでくれる人がいるならアヴァロン・ル・フェについては語りたい点が山ほどあるのでまた更新したいと思う。
特にオベロンについては折を見て吐き出したい。
それでは。